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相撲の神さまと埴輪と鎮魂と

1 野見宿禰神社

 両国国技館の近くに野見宿禰(のみのすくね)神社があります。この神社は明治17年(1884)高砂浦五郎氏をはじめとする相撲関係者が創建したものです。
 野見宿禰を祀る神社は大阪府高槻市や鳥取市にもあります。

2  日本書紀

 野見宿禰は古墳時代(3世紀末〜7世紀)、11代天皇の垂仁天皇(すいにんてんのう)に仕えた人で出雲の出身と日本書紀に記されています。

 大和の當麻蹶速(たいまのけはや、たいまのくぇはや)という力自慢と相撲を取り勝ちました。

 野見宿禰は當麻蹶速を蹴って骨折させ、さらに腰を踏み殺してしまったという凄まじい取り組みだったようです。

 勝者の野見宿禰は當麻蹶速の領地を与えられ、大和にとどまり垂仁天皇に仕えました。

3 埴輪

 垂仁天皇の皇后日葉酢媛(ひばすひめ)が亡くなったときのことです。当時は殉死の習慣があり、垂仁天皇はそれをやめようと考えていました。

 殉死の代わりに土で作った人や馬やその他のもの…埴輪を墳墓に埋めることを提案したのが野見宿禰でした。野見宿禰は出雲から土部(はにべ、はじべ、土師部)と呼ばれる職能集団(埴輪や清浄な食器などをつくる集団)を呼び寄せました。その功績から土師氏を賜り、葬送儀礼も司るようになりました。

4 鎮魂としての相撲

 考古学者の森浩一氏は著作『記紀の考古学』(朝日新聞社 2000年)において、相撲は葬儀における鎮魂の儀礼だったのではないかと考察しています。特に突然の死、不慮の死において鎮魂のために相撲を取らせたことがあったようだと書いています。

  • 野見宿禰と當麻蹶速の相撲は垂仁天皇の最初の皇后狭穂姫が亡くなった事件の後で行われました。

  • 森氏は古墳で力士の埴輪を発掘したことがありました。

  • 6世紀頃の古墳から出土した装飾付須恵器のひとつには、取り組んでいる二人を力士とそれを見守る行事風の人物が小さな像としてありました。

5 菅原道真

 時代がくだるにつれて葬送のしかたが変わり、相撲も変化してきました。

  • 平安時代…農作物の収穫を祈る儀式となり、宮廷の行事(相撲節会)となりました。

  • 鎌倉時代から戦国時代には戦闘訓練として相撲が行われました。織田信長は安土城で各地から力士を集めて上覧相撲を催し、勝った者を召し抱えました。

  • 江戸時代になると各地で勧進相撲が行われました。力士を職業とする者が現れて、定期的に相撲が興行されるようになりました。現在の大相撲のかたちです。

 一方、奈良時代に土師氏から菅原氏が現れて学問の家系として活躍するようになりました。その家系から生まれたのが菅原道真です。天神さまは相撲が神さまの子孫だったのですね。

参考文献
森浩一『記紀の考古学』朝日新聞社2000年
日本相撲協会公式ホームページ
画像は墨田区の野見宿禰神社…日本相撲協会公式ホームページより

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