見出し画像

流星の正体

こんなありきたりな言葉で自分のことなど表したくなかった。私の感覚はとても平凡で陳腐なものなのだ。なのにこんな凡庸な寂しさを慰めるような物語がないのは何故なんだろうか。
 続けることに疲れて、でも終わらせる勇気もない。もう一滴も残ってないほどには精一杯、勇気を振り翳してここまで来たような気がする。底をついた心が涙もなく悲鳴をあげている。大好きな歌がまだ好きだと言えるのが、せめてもの救いだった。素敵な言葉の羅列を読みほどいて、一粒ずつ咀嚼して布団の中で丸くなった。
 眠ることに疲れて起き出した午前二時。乱れた前髪が垂れ下がる視界に、窓の外が妙に明るい。太陽はまだ地平の下にいるはずだった。東の窓は、真珠のような仄白い七色にぼんやりと明るかった。
 湖底を歩くような緩慢な動きで、私はベランダへ通じる東の窓を開けた。心地よく冷えた夜の風が、夏の匂いを孕んで部屋へと広がった。夢を見ていたんだろうか。泣いていたのかもしれない。腫れたように重くなった瞼をこすって、ベランダの隅に落ちる真珠色の明かりを見やった。
 美しい光だった。22時の空に現れた木星の光冠を授かり、万華鏡の中に閉じ込めたかのような光だった。放射された光の筋は幾何学模様を淡く、夏の夜半にゆらぐ大気に浮かべている。瞳が規則正しい光の模様を映すだけで、心の底から何かが掬われるような気持ちになる。全てを委ねたいような衝動に駆られ、けれどもその淡い輝きの儚さに、小ささに、そういった衝動的な望みは放擲せざるを得なかった。
 せめてと、光の中心にあるものに手を伸ばした。触れられるだろうか。温度はいくつ、私と離れているんだろうか。気を抜けば忘我の昂ぶりに飲まれてしまいそうになる。私の瞳に映る光の軌道は、狂気を纏っているのかもしれない。
 これはまるで、潮に満ちた夢の中のようだな。指先が遮る光の筋は、ひらめき揺らめき、けれど私に逆らうことはしなかった。果たして人差し指の腹に冷たく触れたのは、ガラスのビー玉ほどの大きさをした、流星の欠片だった。
 流星だと分かったのは、私の触れた欠片の核となる部分から放射されていた光の筋が、夜の大気に幾何学模様を描き、私の瞳の水晶体を傷つけることなく貫いたときだ。雪花に似て非なる直線的な光の配列は、その末端を私の瞳から差しこませ、脳に直接語りかけたのだ。乾いた土が雨を飲み込むようにして、私の脳裏にあらゆる知識が共有されて、流星の旅路がわずかに写し出された。
 気の遠くなるほど底の見えない暗闇を、真っ直ぐに駆けてきたのだ。あまねく星々の輝きは一つとして同じものは無く、海に散る泡のようだった。
 ふと、浮かんでは消える私のものではない記憶に、一縷の乱れがあることに気づいた。その乱れはとても深い場所にあって、白くか細い。けれどとても大切なもので、そこから何か根本的なことがずれてしまっている。どうにかしてこの綻びを解消したい……けれど今のままではそこまで手が届かない。
 私は流星の欠片を手のひらに包み、部屋へと戻った。光の回路の歪みを正しく見つけるにはこの回路を――核が放つ正円と直線の回路をどこかに投影してやらねばならない。もしこの流星の欠片が、太陽ほどのエネルギーを持っていたならば、夜空の大天上に回路を映し出すことも可能だっただろう。しかしこの星粒は、その途方もない膨大なエネルギーを持つ恒星の、ほんの細やかな息遣いほどの大きさしか持っていない。小石で大きな波を立たせるには、水を入れたバケツに小石を投げ入れるのがよい。この小さな流れ星には、その大きさに相応する領域が必要なのだ。
 窓の開かれた夜にある部屋の中で、閉じられていた手のひらを開けると、流星の欠片は、その体に刻まれた全ての情報を、暗い部屋の天井に、壁に、机や本棚に、瞬く早さで展開させた。不思議なことにその光の回路は私の背面にすら、つまり私を透過して全方位に向かって放射されていた。光源はあるのに、影のない私の体はまるでここにないものかのように錯覚する。先ほどまで鬱屈と消沈を丁寧にかくまっていた部屋が、未知ときらめきの記憶の回路に上書きされている。
 数時間だけ身を投げ出していたベッドの、シワの寄ったシーツの上にまで、流星の知識と記憶による光の道が映し出されていた。
 欠片は手のひらの上で冷たくころりと転がると、ぶるぶると震えだした。そして乳白色に輝いていた体の奥から、淡い紅色を滲ませると私の手を離れ、部屋の最も中央、床からも四面の壁からも等しい距離を置いて、中空に留まった。
 流星の欠片はどうやら、自力での修復が難しいと悟ったのか、私にこの回路に混ざる一抹の乱れを正してほしいらしい。流星はもう完全に私が頷くものだと思っている。その証拠に、部屋の真ん中に浮かんだまま動こうとしなくなった。
 私は座りこんで、恍惚と部屋の中に広がる景色を眺めた。展開された回路のせいで、床には少しざらついた凹凸を感じる。起き抜けの霞がかった頭は、流星の頼みを迷惑とは思わなかったし、嫌悪も呆れも感じなかったが、白く輝く流星の記憶は、手に入れられない綺麗さを感じさせた。必ず手放さなければならない尊さだ。欲しいな、と思った。私の中に何かを欲している部分があって、ほっとした。
 
 私は手始めに、床に映る回路の点検から始めることにした。投射された道を指でなぞり、小さなものは米粒くらいのものから、大きなものは壁一面を囲えるくらいのものまで、大小異なる正円の数々を、水流が下へと向かうように、あるべき場所へあるべき姿となるように正していった。精確な位置はすぐに理解できた。流星の欠片と私は、今まさに感覚や知識、感情さえも共有していた。私の中には流星の欠片が宇宙を旅した記憶が流れこんできたように、流星の中にも私のささやかな興奮、そして眠ることの恐ろしさや体を支配していた虚脱感が流れこんでいるのだろう。あんな小さな、核の中に。

 緻密で整いすぎた箇所は緩め、捩れた箇所は解き、心地よい精巧さが体を再構築していく感覚のまま指は動いた。欠片は、自らを欠片と名乗り、おそらく元はもっと大きな流星の一部だったのだろう。部屋に展開された図形が精密すぎて、おおよそこの小さな体に見合うものではなかった。この欠片が再び高い宙を走りだすには、跳躍ともっと単純で非対称な「動き」のある式が必要であった。
 私との感覚を共有しながら、直線と円だけで構成されていた流星の回路は、整えていく内に少しずつ形を変化させていった。たおやかなカーブを形づくり、川の流れを模してゆく。優雅な曲線はしなやかで、重力のさざ波も太陽の風も味方に変えるだろう。ざらざらとした回路の表面は疲れを落として川底の石のように滑らかで、柳絮の綿毛のように柔らかになっていった。
 黎明の静けさに指を中空に滑らせる。東の空が少しずつ青く、明るくなっていく。街はまだ目覚めない。この流星の母は今、どこを飛んでいるのだろうか。いつか自分が落とした欠片のことを、省みたりするのだろうか。そして自分の意思が末端の欠片にまで及んでいたことを、知る日が来るのだろうか。案外似ているのかもしれない。私も、何かの意識の集まりが大きな流れを作り出しているだけの意思かもしれないからだ。心や意思となる臓器は、体のどこを探しても見つかりはしない。

 午前五時を迎えるぼんやりと明るい部屋の中で、私と流星は生まれて初めて翠雨に打たれるような、深い安らぎのなかにいた。流星の欠片はその回路をほとんど完成させていて、あとは人知れず、己の向かう空へ飛び立つのみとなった。回路はずいぶん形を変えて、伸びやかな植物の蔦が、一切の風をいなすような、唐草模様に似た様相となった。ウィトルヴィアンスクロール、ロータスのような長い茎の、見るものを飽きさせない流れる回路ができあがっていた。
 恐ろしく長い間、回路を修復していたような気がする。流星から共有された感覚が、そう思わせたのかもしれない。時間なんてのは感覚に過ぎなかった。手のひらで再び流星を包むと、初めて触れたときより激しく、燃えるように冷たくなっていた。そこで私は初めて、おや、と疑問に思った。これは本当に流れ星の欠片なのだろうか。
 流星の欠片は一刻も早く、空へ舞い上がりたい衝動を抱えていた。私はベランダへ足を踏み出した。淡く紫に染まりだした東の空から、早朝の大気が気だるげに動き出す。今日は晴れるだろうな。外へ出たとたんに、それまでまばゆく放たれていた流星の光は、驚くほどか弱いものになったかに見えた。しかし怖じ気づくわけもなかった。
 待ちきれないとでも言うように、流星は私の手から転がり出した。そして音もなく、この世で一番静かに、藍色の天頂を目指して駆け上がった。あっと叫ぶことも、別れを告げることもできず私は、流星の後を目で追った。
 すぐに見えなくなってしまうものと思っていた。流星なら、そのまま燃え尽きてしまうかもしれない。けれど私の中で、流星に触れたときのあの凍てつくような温度が引っかかっていた。光の核はすぐに見えなくなった。けれどずっと深い空の底に目をこらしていると、幽かに、雲の端のような、光の錯覚のような、白い尾がちらりと揺れて見えた。
 尾を引いているのだ。
 オールトの雲からやってきた旅人の証である、イオンと塵の尾を!
 あれは流星の欠片ではなかった。彗星だったのだ。
 私は何だか脱力して、夜明けの空を仰いだまま座り込んだ。私の中に、あの彗星の痺れるような昂ぶりがまだ流れこんでくる。自分を流星だと思い込んでいた彗星に、少し笑ってしまった。あんな風に別れられたら、どんなに楽だろう。つかの間の喜びが、これからの寂しさを埋めてくれるような気がした。

 それから時々、名も知らぬ彗星が私の元を訪れるようになった。彼らが羽休めする場所にここを選ぶことの理由は、考えるまでもなかった。
 あの時の彗星は、存外おしゃべりだったのかもしれない、とたまに考える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?