はるみぞれと夏の少年 第12話 ―秋は嘘をついた―

 秋微雨(あきついり)は嘘をついたのだ。
 春霙(はるみぞれ)が閉じていた目を開けたとき、秋微雨の姿はもうどこにもなかった。彼女の座っていた皮のソファには少しの重みも残らず、その前に置かれた本の文字列だけがかろうじて彼女のものだ。

 暖炉の火はだいぶ前に消えていたようだ。薪は黒く煤けることを過ぎ去り、白い灰となってどこか惨めな様子に見える。その代わりに、朝日が昇っていた。窓の硝子から、冷たくて悲しい光が射しこんでくる。
 春霙は力ない足取りで、秋微雨のものだった屋敷の、重たい扉を開けた。日の光が春霙の全身を貫く。あまりの透きとおるまぶしさによろめき、小さな手の平が顔を覆った。
 春霙は泣けない。彼女は涙を持っていない。彼女は、夏に出会ったあの少年のように涙を流して泣くことはできない。生まれて初めての二度目の別れに、彼女の哀しみは涙に収まりきらなかった。茫漠とした静けさが世界を包む。その中でひとり、春霙は胸を穿たれたような痛みに耐えた。信じられない苦しみだった。
 春霙は考えた。声を上げれば痛みは和らぐのか。涙を流せば、朝日に露と消えた友は帰ってくるのだろうか。春霙は分かっている。
 彼らは帰らない。半夏雨(はんげあめ)も、秋微雨も「一つになった」。
 行くしか無いのだ。この苦痛は、抱えてでしか進めない。
 秋微雨の描いた本を手に取る。初めてこの本を背負い、自らの屋敷を後にした時よりも、本は何倍も重たくなったように感じる。あの頃、この不完全な本を読み進めるたびにうっとりとしていた恍惚は今はもう無い。洗練された文章の感覚は研ぎ澄まされ、それらは今の春霙には痛々しすぎた。
 開け放たれた扉から、中秋の朝が流れこむ。手の平ですくいとれば、実りと衰えと芳しい香りが鼻腔をくすぐる。夜長の内にきこえた花の香りを見つけた。秋微雨はそれを、金木犀の香りと呼んでいた。
 屋敷を出た春霙の目に、それらはすぐに飛び込んできた。ゆるやかな早朝の風に乗り、記憶の隅々まで染みわたる、冴える香りがあたりに溢れている。
 根元からいくつにも分かれる幹に、生える葉は深い緑を繁く、そこに夕日の欠片のような小さな花弁が散らばっている。
 春霙は、背の低い金木犀の木に手を伸ばし、枝を一本手折った。花房が重みに揺れ、いくつかの花が地面へ落ちていった。
――秋微雨が、私の前にいた証がほしいの。
 大切そうに枝を抱え、頬をすり寄せた。そうしてトランクにしまい込むと、春霙はもう秋微雨の屋敷へは戻らなかった。
 重くなった体と本を抱えて、広大な湾岸を背に歩き始めた。足取りはしっかりとしている。地面を精一杯踏みしめていないと、崩れてしまいそうなのだ。今、膝をついては何かが体の内側で崩れ落ちるような気がしていた。
 風が、春霙が前にした山の稜線を越えてやってくる。夏の風ではない。吹き下ろすのは、潔白と静寂が温度を持ったような風だ。
 冬だ。
 春霙は、暗い緑に覆われた岩肌の山並みを見据えた。

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