ただ、不器用なだけ

なんでひとは不倫するんだろうってことは、もう何度も考えて考えて、それで受け入れてきた。この2年間のあいだに。

そうでもないと、自分の中で辻褄を合わせるのが難しくなっていたから。

しょうがないという言葉で片付けられるほど、事の問題は簡単ではないが、でも確かにその微妙なバランスでその人が立っていられるのだとしたら、それを間違っていると、一言だけ正論を振りかざすこともできない。

だから私はただただ、自分の中にある違和感や嫌悪感と向き合い、そして世の中には良いことも悪いこともないのかもしれないと思えるようになった。

と同時に、まじめに生きていることも少しくだらないと思うようにもなっていた。そもそも人は信じられない生き物であって、コロコロ考えも変わるものであって、そこに不変的なものを求めることこそ、無意味である気もしていた。人に期待する自分はいる一方で、だからと言って信じていない自分もいて、お互いに期待なんてしなければどんなに楽なんだろうかと思うようになった。
だけど、期待しなくなったとしたら、そもそも相手に何を求めるのか。何も求めていないとしたら、一緒にいる意味はあるのだろうか。そんなバランスの取り方はとても難しくて、未だに分からないというのが、今のところの現状だ。

若かった頃の自分には、到底理解できない価値観だったろうが、年齢がそうさせたのか、周りの環境がそうさせたのか分からないが、いまの私は頭ではそれが分かるようになってしまった。

じゃあ、今の私ならあの時、あの状況で許せていたのだろうか。と問うと、それはまた難しいなあと思う。

唯一、私がそう言ったことを受け入れたときに思ったことは、不倫にしても何にしても、何か起こったときに話し合える関係性であるかどうかが、その先もその人と一緒にいれるかどうかなんじゃないかと思うようになった。

話し合える関係というのは、逃げずに相手を想い向き合うことだ。それが出来るか出来ないかで、そのあとの経過はきっと変わる気がしている。

あの時の私は、すでに話し合える関係性ではなかったのだが、何より一番に私が悲しかったことは、本当の意味では不倫ではなかった気がする。
きっとあの頃の私もとても分かりやすくて、もしかしたら私が考えていることなんて、本当にすべてお見通しだったのかもしれない。

だけど、だとしても、お願いだから、話を聞いてほしかった。まじめに私の話を聞いてほしかった。あの時欲しかった言葉は、何をするか分かってるではなくて、そうなんだね。の一言だったんだろう。

それが真意だったとしても偽りだったとしても何だったとしても、あの時の私には到底無理だった。すべてが。嘘でもいいから何かを信じたかった。ただひたすらに。それだけで生きていけてたのに。でも、結局向き合うこともせず、嘘もついてくれずに、ただ向いてくれなかった。だから、おわった。

でもだから今がある訳で、あの時はあの時で、今は今でそれでよかったんだろう。

今だから一つ言えることは、すべてのことに、良いことも悪いこともない。それはその人にとっての捉え方で、誰かが幸せなときに、誰かが不幸せであるかもしれない。ただ、それだけだと。

唯一、この価値観を手に入れた私だとしても、救いというか、変わってないことが一つだけあって、それは私は不倫ができないタイプだろうということだ。
昔からそうだけど、どうしても上手くやりくりできない。二つのことを同時にできないのと一緒で、気持ちの整理をつけるのが下手なんだと思う。これはこう、あれはあれ。と据えられない。

そのせいで、これまで幾度となく、もったいないこともしているだろう。けど、それができないのが私なんだろうということも、今なら思える。

傲慢と善良という小説を読んでいて、自分に怖いほど置き換えられたりする。本当に傲慢と善良が入り混じっていて、なんとまあややこしいことだろうと思いながら、やっぱりすべての事柄には、良いも悪いも正解も間違いもないのかもしれないと思う。すべては表裏一体であって、その人その人それぞれに、解釈も考えも異なる。だから、やはり永遠なんてあり得ない。あるとすれば過去だけだ。

#ただのメモ

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