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ふろしき

大好きなうさぴーへ

とっくのとうに2024になりました、6の方がかなり不意打ちです、おひさしぶりです。内緒でうさぴーにだけいっぱい書いてたけどね。

ぴったり5カ月ぶりに京都に戻ってきたのですが、なんだか自分は本当にここにいなかったのか、もう一人の自分が実は京都で暮らしてたんじゃないかとか、いや逆にそんな5カ月なんか存在しないんじゃないかとか、不思議な気持ちに陥っております。多分その理由の1つは、留学先の全部が違う場所に比べてあまりにも滑らかに生活が始まったからなんじゃないかな、ありがたいことです。線がきれいすぎて途切れた間を同じくらい鮮やかに想像できてしまうみたいな感じ。でも身体は現実を知っていて、部活に行ったら文字通り全身が筋肉痛になって、痛くないのは頭と手先足先だけ、教習所でブレーキはかかとを浮かせるとか言われて腹筋にばっちり効きました。そして私は京都の秋を見ていない、昨日のことみたいなのに記憶の中の人々は半袖で、馬たちも服を着ていなくて、懐かしい鴨川にかかる橋に立って景色が茶色いのに変な鈍い衝撃を受けました。なんだか物価が高くなっていて、スーパーで野菜が何も買えませんでした。知らないうちにchocoZAPなどというおいしそうなジムがたくさんできて、クレープ屋さんの後にできた無人古着屋とか行ってみたいし。食堂でやたらとクラスの子に遭遇するのは嬉しくて、でもいつも45点くらいの挨拶しかできずにじっくり反省会をします。部活の後輩と同期の距離が縮まっていて、ついでに後輩から見た私も近くなっていたみたいでお得な気分。コールドスリープから覚めた人とか、こんな感じなのかもしれませんね。そこまでいかなくとも、夢から覚めたみたいな感じです。ちょうどいい比喩のようでも、何かが決定的に違う気もします。逆に夢って全部こうだったらすごい。最近はよく、遅刻する夢をみてハッと目覚めて遅刻を回避したりするのですが、別の私の失敗を学ぶっていうのは例えば歴史から学ぶことなんかよりずっと身近で基本的なことのような気がしてきます。よく、分度器みたいに現在という点から放射状に伸びたいろんな未来、時間が経つにつれて隣との距離が離れていく絵を想像します。

下宿をしてから実家に帰ったときとか、しばらくしてから読んだ本とか映画とか、同じものが違って見えるときに私はひとに伝えたくなってしまうみたいです。上に書いたことを見直したら単に時間が経ったからで全部説明できる気がしますが、ひとよりちょっと長い春休み、きっとあるずれをのんびり見つけて咀嚼できたらいいな。今日ふと強い力が働いて買ってしまった空とか花の色が並んでいる辞典なんかも、優柔不断なままほんのちょっとだけ過去の決断がどうでもよくなったこととか、多分横っちょに実った収穫の1つです。最後に教科書じゃない本を買ったのは1年以上前です。なんだかいつにも増して千鳥足のような気がしますし、正直に言って自分でも何が書きたかったのか全く分かりません。

写真は最近我が家に導入されたお気に入りの加湿器ちゃんです。

2024/01/19

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