空と花と石

課題が終わって気分が良くて、ゆとりがあるので筆が進みます。ちょっと前にインスタのストーリーのハイライトなるものを作ろうという気になって作ったのが、空集とお花集。この2つを並べたら、石を並べないのは理不尽だと思いました。私の好きなものです。どうしてこれが好きなのかな、と考えておりましたら、生活の授業の風景がふっと浮かんできました。昔の話をいたします。

転校直後の小学校2年生の春、いつ行ってもいきなり開けたように感じた中庭での授業。なんでもいいから観察しろということだったとしたら、随分自由なものです。でも遊具コーナーで遊ぶという体育の授業もあったんですから、案外そんなこともあったかもしれません。私はお花のスケッチをして、文章のところに花の中の色の違いだったかな、を書いたのです。その少し前に買ってもらった24色いろえんぴつに「やまぶきいろ」があって、趣味で絵を描いていたおじいちゃんにやまぶきとは花の名前だと教えてもらって、庭にたしかに「やまぶきいろ」の花がありました。桃はももいろじゃなかったけれど。なぜか、この記憶がせいかつの記憶とくっついています。ひょっとして、やまぶきの花を観察したんだったかな。担任の先生はしま先生といって、国語の先生らしく字がきれいで優しくて、すごく好きでした。「きょーおーかーしょ、はい出して!」と授業の最初に言うので、心の中で「はいせんせい!」と言っていました。四拍子。個人面談で、せいかつを例に目の付け所がおもしろいですね、と言われたのをなぜか今でも覚えています。よっぽど嬉しかったんでしょうね。ちなみにこの面談で、他クラスだったのに先生がわざわざ名前を出して、あの子なんか気が合うんじゃない?と言ってくれた子とは、そのあと同じクラスになって今でも一番の親友です。当時はせいかつという授業を特に好きだった覚えはないのですが、母と散歩しながら道端の花に名前をつけたり、ずっとお花は好きだったのです。

石については、毎年夏休みに行っていたはとこの家のすぐ近くにきれいな石が落ちていたことが始まりだったように思います。たしか駐車場で、人工的なものだったのですが、赤や黄色や緑の透き通った石、小指の爪の半分くらいのごく小さな石が、灰色の地面で光っているのです。はとこたちと、そこにしゃがんで長いこと「きれいな石集め」をしていたものでした。その家は徒歩5分とかからないところに海があって、強い潮のにおいの中でずっと貝がらを拾っていたりもしました。引っ越すときにだいぶお別れしたけれど、それまでは小さな引き出しいっぱいに貝がらを持っていました。最近はより身近な石に惹かれますが、旅先で拾った貝は大切なお土産です。お店でわざわざきれいな石を買ったり。おじいちゃんの家の庭で拾ったおもしろい形の石が顔みたいにみえるねと言って、丸くくぼんでいるところに赤く色を塗って目を描いてくれたのをずっと取ってありました。ひどく驚いた顔でした。どうして一人暮らしのうちへ持ってこなかったんだろう。実家にまだあるでしょうか。祖父は先月亡くなりました。

空は京都に越してから好きになったのだと思っていました。何しろ条例のおかげか、空が広いんですから。なんだかんだ言って私は都会育ちなのでちょっと悔しいです。あと京都は地面の舗装がおもしろくないですね。でも例のインスタのアーカイブを見ていましたら、実家から微風の日に雲の動きを見ているものがあって、こんなものをあげていたのかと恥ずかしくなる一方で、この頃すでに、とちょっとうれしくもなりました。空って、いつでもそこにあるものみたいなモチーフになっている印象がありますが、変化に富んだ空、いつでも何か新しい模様を生み出す空、少し目を離した隙に信じられない変貌を遂げている空という側面が私には強いのです。街を歩いていてふっと顔を空に向けている人をごく稀に発見すると、友達になりたくなります。

2023.11.15

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