『業音』(2017/09/29於まつもと市民芸術館)

松尾スズキの作品を、観に行くときは覚悟がいる。
やー、反射的にチケット取って、日々のことに忙殺されて、忘れてた。
そうだった、そうだった。

愛は性無しには語られない渇望。色欲名声欲独占欲etcのために借金殺しテロ近親相姦糞尿に至るまで、タブー(そこにゲイやエイズ患者も盛り込まれてくるあたりは一昔前の作品っぽい)のオンパレードでその混沌に混乱寸前。
そこに、大人計画の役者の手練によって、重さに沈みきらない飄々としたメタ的なものが常に働いている。不条理もサラッと笑い飛ばす。滑稽でずーっと可笑しい。登場人物は堂々としぶとくて凄みをもってグイグイと前に進んでいる。
もーね、みんなどんどん脱ぐの。目のやり場に困るくらいあっさり脱ぐ。ヒロインだって半裸だし。決して引き締まっているわけではないお尻から後光がさしちゃったりして、生々しいんだ。猥雑なのに舞台上が聖域のように見える不思議。松尾スズキという人は、一歩間違えたらカルト宗教の教祖になっていたかもしれない、なんてことがふと頭をよぎった。
身体をさらけ出し、心を剥き出し、暴いたあとには虚無感が。この濃度を出せるのは小劇場集団ならではで、“なんとかプロデュース公演”では到底なし得ないだろうなあ。

登場人物とストーリーの狭間で、真っ白な衣装をまとった踊り子が舞う、あの掃き溜めに鶴感も印象的だった。
黒子のような役割でもあり(白だけど)、業の渦のなかでどこか面白がっているような、その渦をかき回している張本人でもあるような。美しかったです。

己の、他人の業を繰り返しあてつけられ、阿鼻叫喚が繰り広げられる。神を求めても、見つけたと思っても、すり抜けていく。そうやって進む様を観ていると、私自身が大人として・社会人として・そこそこ全うな人間としてやっていくために、潜在化させているような部分が首をもたげてきたりして、あー私ってダメ人間・・・と途方に暮れてたりしてね。

開演前に時間があるからと、新しくできたショッピングモールに行ってみたくなり、さらに欲張ってスフレパンケーキを2枚も食べたら、気持ち悪くなって苦しんだよね。
席に着けば、隣のカップルの会話が聞こえてくるんだけど、結婚指輪をしている男性が年上の女性に「今日ここに一緒に来られていい思い出になるって予感します(かわいいこと言ったみたいな顔)」「寒かったらここにひざ掛けあるんで一緒にかけましょう(優しいっぽいこと言った)」「こんどのロッキーホラーショー、映画で予習しましょうよ、場所が差し支えるようだったら車のなかででも(もう下心丸出し!)」とたたみかけていて、女性のほうも言葉少ないながら何の拒否もしないし。オエー・・・なんだこいつら気持ち悪い!って思ったよね。この作品にお誂え向きの連続性だったのかもしれない。

人間は馬鹿で愚かなんだよ。
巡り巡って不幸になっても、悪あがきするしかないんだよ。

「落語は『業の肯定』だ」といった噺家がいた。落語の世界にも、愚かな人間が出てくる。でも、その愚かな人間は、弱くとも愛くるしい人間として演じられることが多い。凛々しく利他的な人物や、短気だけど人の好い江戸っ子も出てくる。 落ち(さげ)で、すっと業の連鎖(輪廻とも言えるのかな)から離れるような瞬間がある。
今作品、開演前のスピールで皆川猿時さんが「本公演はカーテンコールはございません、お察しくださいっ」と予告していたのに失笑させられたけれど、この作品の業の扱い方はそういうことだ。Go-on。誰からも離れることはない、断ち切ることのできない、永劫続くということだ。

しんどいんだよ、無様なんだよ、愛されるなんて思うなよ。
でも生きるんだよ。生きるの。ずーっと、生きるしかないの。
それは究極の生の肯定なのかもしれない。