特例法の手術要件守れ、GID特例法生殖能力欠く要件違憲判決についてGID特例法守る会設立趣意書と美山みどり代表.児玉敬事務局長さんの自己紹介のPDF魚拓記事とハココさんの「特例法の手術要件」が完全に撤廃されるならのPDF魚拓記事読んで頂きたいと思った話。

特例法の手術要件守れ、GID特例法生殖能力欠く要件違憲判決についてGID特例法守る会設立趣意書と美山みどり代表.児玉敬事務局長さんの自己紹介のPDF魚拓記事とハココさんの「特例法の手術要件」が完全に撤廃されるならのPDF魚拓記事読んで頂きたいと思った話。







「性同一性障害特例法を守る会」の代表を勤めさせていただきます、美山みどりと申します。性別適合手術(SRS) はタイで済ませて、戸籍を女性に変更した MTF の性同一性障害(GID)当事者です。特例法が出来てすぐにジェンダークリニックに通いだして、生活を女性に切り替えました。ですから、女性での生活歴はもうすぐ20年になります。もう男をしていたことは、前世の彼方みたいな感覚になりつつあります。

ちょっと他の方と違う面があるとすれば、いわゆる「埋没」ではないあたりでしょうか。生活では完全に女性として生活していて、男性としての過去があることを知らない人が周囲には多数なのですが、特例法が出来たときには40歳、すでに職業上のキャリアなど十分に積んでいる状況でした。
ですから、周囲には「性別を変えます!」と宣言して、性別移行しました。周囲にはその過去を知る人がいますから、公式には私が性別を変えたことは「秘密」ではありません。

「特例法」の意義は、「戸籍の性別を変える手段を提供した」ということではありません。まさに「性別を変える人も、世の中にはいる」ということを、社会が認めたということなのです。ですから私は特例法に強く感謝しています。特例法に勇気づけられて、私はおおっぴらに「変えます!」と周囲に宣言して、女性の生活を始めました。友人たちの中にも戸惑う方もいましたが、すぐに慣れてもらえました。そんな友人たちにはいつも感謝しています。

また職業面でも、プログラマが天職だと思っています。トランスした当時の職業はやはり止めることになりましたが、「プログラマで生きていける」自信がありましたし、トランスすることを念頭に置いて、スキルをアピールできるような準備もいろいろしていました。その成果もあり、プログラマとして会社からも大事にされてきましたが、年齢もあって去年ハッピーリタイアしました。プログラマはトランス差別がない業界で有名ですから、私は恵まれているというのは感じます。

ですから、LGBT理解増進法の問題が浮上して、手術済のGID当事者からの「LGBT法案反対」の声が必要、という事態になったときに、私が手を上げました。私には知られて困る「秘密」はありませんし、仕事も引退ならば迷惑をかける方もありません。性別移行後も恵まれた生活を送ることができたことに対する感謝の念と、私たちの利害を主張するための特例法の経緯の証人としての立場から、「女性スペースを守る会」など4団体の記者会見などにも出させていただきました。
このような経緯で、本会の代表を引き受けさせていただきます。

私は普通の職業人として性別移行後も暮らして来ました。政治活動をしてきたわけではありません。平穏に性別移行して社会に埋没して暮らす私たちGID当事者の利害を主張するためには、その平穏を捨ててでもあえて立ち上がるべき、と考えたのです。

LGBT理解増進法が政治問題として浮上し、女性スペース・女子スポーツなどとの関係で問題が取りざたされるようになり、その中で野党案推進派がいわゆる「トランスジェンダー」の立場から、「性自認ベース」だけで性別移行の問題を語ろうとしていることに、私たちGID当事者は強い危惧を感じてきました。このLGBT理解増進法案の審議を通じ、私たちGID害当事者は、野党案推進派の「トランスジェンダー」たちとは、利害が共通しないことを実感してきました。

私たちGID当事者は「トランスジェンダー」ではなく、固有の利害があるのだ、ということを積極的に発信していく必要を感じています。私たちには、野党案推進派であるLGBT活動家とは違った、独自の要求と利害があります。LGBT活動家は私たちの固有の利害を認めず、それを無視ばかりしてきました。
ならば私たちGID当事者は、LGBT運動に「連帯」する必要を感じません。

私たちGID当事者は「トランスジェンダー」を名乗る積極的な理由がありません。それよりも自分たちの固有の利害を示す「GID当事者」を名乗るべきです。

この私たちがあえて平穏を捨ててまで、自らの利害を守りたいと発言する気持ちをどうぞお汲み取りください。

よろしくお願いいたします。

https://note.com/gid_tokurei/n/n694f6d62f80e
自己紹介:美山みどり(代表)

GID特例法を守る会

2023年7月11日 20:24




児玉敬と申します。

私は40代のFTMで30代からホルモン治療を行っています。今は、一部役職者や人事の方にご説明して、本来の性別は伏せた状態で働かせていただいています。

私は治療の開始が遅かったですが、その分「性別」について色々考え感じることがありました。

一当事者として、手術要件の維持など会の趣旨は社会的に妥当な範囲のものと感じ、賛同しています。また、当事者としても重要なものと感じます。



まず、ごく簡単にですが、子どものころから今に至るまでを書かせていただきます。

私は子どものころは自動車の絵ばかり描いていたようです。小学校の前半までは、帰宅後などに弟や近所の子たちとやんちゃに遊んでいました。スカートを嫌がる子でした。(当事者でなくてもあるかもしれませんね)

ただ、FTMにありがちな「男子と思っていた」というのは自分にはあまりなく、男子の中で遊ぶ中で自分が女子であること思い出すと「自分は男なのか女なのか」と思っていました。

思春期以降は女性らしい体型や骨格、声などへの不快な違和感を持つようになり、性別違和を避けるための工夫は自然としてしまい、20代の前半にはいつの間にか女性トイレで男性に間違われるようになっていました。

治療を始めるのは30代と随分遅くなりましたが、ホルモン治療を始めてからは随分楽になりました。ただ、今も顔や腰の骨格はやはり日々気にしてはいます。多少、声や筋肉で見せかけて意識しないで済んでいるだけなのだと思います。

また、男性として男性の中で生活していると、違いが一層顕著に分かるので、筋トレや胸オペ、SRSの必要性は日々実感するばかりです。



特例法の手術要件撤廃を求める声についてですが、FTMとMTFだと事情は違ってくるところもあるかとは思いますが、自分の経験から簡単に思うことを書かせていただきます。

セルフID的な話としては、実のところ私も未治療の悩んでいる最中「女性と言わないでほしい」「男性として扱って欲しい」と思っていなかったとは言えません。

しかし、性別はありとあらゆるところにあり、人は瞬間に性別を判別しているのであり配慮には限界があります。

思い出せば、治療前までは自分の性別を思い出す瞬間は正直かなりつらかったです。ごく身近な人たちに助けてもらう(少し忘れていられるよう配慮など)のはありなのかな…と思ったことはありますが、セルフIDは社会制度を変えようという話なので、言い方は悪いですが、そこまで来ると自分だったら「裸の王様」のように感じて余計辛く感じそうです。

また、表面上望む性別で認識され、生活しているケースで手術要件に制限されたくないというケースもあると思うのですが、生殖機能を維持している以上、妊娠させる・妊娠する可能性を維持しているわけで、そこを無視するというのはいくら何でも無理があると思います。

正直、手術要件撤廃を無理筋と考える当事者も多いと思うのですが、当事者は(本来の性別と思う)望む性別へ埋没したら当事者であることをできるだけ忘れたい人が一般的ではないかと思うと、この問題については今まさに悩み深い人たちが発信することが多いわけで…。

性別は奥が深いです。治療の前後でも考え方がぐるりと変わるような瞬間や、移行後になって見えることもありました。

「手術要件撤廃を批判する当事者たちというのは、既に助かった人たちだからだ!」といった感じの人の良心につけ込むような批判を見かけたことがありますが、自分たちが歩んできた過程で感じたことや今も苦労しているところから気付くものがあって、だから発信している人がほとんどではないでしょうか。

一緒に声を上げてくださる当事者が増えたら、心強く嬉しい限りです。

https://note.com/gid_tokurei/n/nd64569d4d477
自己紹介:児玉敬(事務局長)


GID特例法を守る会

2023年7月11日 22:44




2023年(令和5年)7月10日

性同一性障害特例法を守る会

「性同一性障害特例法を守る会」の設立趣意は、次の通りです。 私たちは、性同一性障害の当事者の集まりであり、積極的に私たちの声を広く政治に反映させます。
 2023年6月16日「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」(以下「LGBT理解増進法」という。)が成立しました。2021年の超党派合意案で懸念されていた、女性の安全や行き過ぎた差別糾弾・学校教育に対する民間団体の不当な介入などの問題に対して、一定の歯止めがかかった法律であることを、私たちは肯定的に評価する一方で、この法律を元にしてLGBT当事者の利害と、社会全体の利害とのバランスをとった理解増進のため、積極的に性同一性障害当事者の声を政治に反映することを目的として設立します。
 私たちは、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」(以下「特例法」という。)を守っていくことを目的とします。
2023年6月16日成立したLGBT理解増進法の審議の中で「性自認」「性同一性」「ジェンダーアイデンティティ」と、私たち性同一性障害当事者にとって「自分たちの定義」にあたるような概念について、さまざまな議論がなされ、結局英語そのままの「ジェンダーアイデンティティ」が法律に採用されることになりました。
 私たちは自らを定義するのに使うのは「性同一性」という医学の用語であり、けして他の諸アイデンティティと並列するような「アイデンティティ」の概念、「自分が主観的に自分の性別をどう捉えているか」といった誤解を招きかねない「性自認」という言葉ではありません。
 それゆえ「性別を自己決定できる」いわゆる「セルフID」は私たちの要求ではなく、医学的な根拠と社会的な合意に基づいた特例法での立場を守っていくことを、当会の目的とします。
 私たちは、特例法と手術要件を守り、いわゆる「セルフID」に断固反対する立場を表明します。
 この理解増進法の議論の中で、特例法を廃止して厳格な診断の上で性別適合手術をしても法的性別を変更する道を閉ざすべきだという主張が、一部から強くでました。逆に、従来から、多くの団体と幾つかの政党が、特例法の手術要件の廃止を掲げ、性自認で法的性別を変更できるようにすべきと主張しています。
 私たちは、「性同一性障害」という自らのアイデンティティと、手術というエビデンスによって社会との協調を図っていく立場から、特例法の廃止にも手術要件の廃止にも強く反対します。
 性別適合手術(SRS)と特例法の手術要件は、私たちが望んで戦い取った権利です。けして人権侵害でも過酷な断種手術でもありません。私たちが手術を受け、それによって社会と協調して生きていくために、特例法と手術要件を守り、手術要件を廃止して医師の診断のみ、あるいは一方的な宣言によって性別を変更することを容認する「セルフID」に断固反対する立場を、私たちは表明します。
 私たちは、未成年者への性別移行医療については、反対します。
青少年は、自らのアイデンティティに強く悩み模索する時期であり、身体の急激な変化やジェンダー規範の押し付けから逃れるため、性別移行が問題の解決方法だとの思い込むことがあります。私たちは、青少年に対し、グルーミングや特定のジェンダー思想に基づいた誘導をしないこと、責任ある立場の人が対応することを望みます。
青少年が「性別違和」を訴えるケースであっても、医療者・保護者・教育関係者・民間団体が安易に性別移行医療を勧めることについては懸念を表明します。不可逆な医療的措置を取られるべきではありませんし、身体に影響の出る医療は最小限に留めるべきです。安易な性別移行よりも心理的なサポートの方が、青少年にとって必要なことであると考えます。
 私たちは、性同一性障害に対する「脱病理化」という主張に対しても、強い懸念を表明します。
 私たちが求めるのは「よりよい医療」であり、性同一性障害当事者を、医療を求めない「トランスジェンダー」と同一視することではありません。「脱病理化」によって、今まで私たちが獲得してきた医療サービスが後退する懸念、「美容手術化」による商業主義、性ホルモン療法の健康保険適用を求めて「混合診療」状態での性別適合手術への健保適用がなされづらい矛盾の解消が難しくなるなど、問題が多くあります。
 また、ともすればガイドラインから逸脱した診断や医療が横行する現状を、当事者の立場から強く批判し、ガイドラインの遵守とともに、私たちが性別移行の医療に後悔することがないように、診断の厳格化とカウンセリングの充実、さらには治療の中止や脱トランスに対しても見放すことのない、当事者任せではない医療者の社会的責任を重視した医療を要求します。
 それを通じ、本当の意味での当事者の全体的な福利を重視したガイドラインの改善と、安全で標準的な医療体制の確立を要求します。これなしには、性同一性障害医療への社会的信用を得ること、社会的責任を果たすことができないものと、私たちは考えます。
 私たちは、女性と子どもの安心安全を尊重します。
女性スペースの安心安全という問題について、理解増進法の審議を通じて不安と懸念の声が強く寄せられました。このことについて、私たちは積極的に発言をしていきます。またLGBT理解増進法を拡大解釈して女性スペースを侵害する行為には強く反対し、女性との間での協調を図ります。
 私たち性同一性障害当事者の立場は、最終的には性別適合手術と特例法に基づいて、戸籍の性別を書き換えて社会に適応していこうとするものです。女性たちとの関係について、医療を求めない「トランスジェンダー」と同じ立場に立つものでもありません。移行中の性同一性障害当事者の立場など、配慮すべき問題はありますが、女性の権利をまず第一に尊重し、それと共存する社会を目指します。
 女性スペースは女性が性的暴力から逃れるための、女性にとって必要不可欠な場です。女性スペースを守りたい女性たちとも協働しつつ、私たちが社会に受け入れられるために活動します。
 私たちは、上記の目的を実現するために、LGBT理解増進法や条例に基づく「理解増進」等の活動に、積極的に参加していきます。これを通じて、性同一性障害当事者の本当の姿と、本当の利害を国民すべてに対し「真の理解増進」を進めていきます。


以上

https://note.com/gid_tokurei/n/nc5d03e5d45ba
「性同一性障害特例法を守る会」設立趣意

GID特例法を守る会

2023年7月11日 19:57





最高裁の判断を見て思ったこと

11月25日、最高裁の判決というか判断で「生殖機能を失くすことは違憲」ということになった。
でも、そのままの外性器のままにいることについては議論が必要という高裁に差し戻しの判断。

最高裁の判断が近づくにつれ、メディアではずっとFtMさんばかりが取りざたされて疑問に思っていた。
多くの女性たちがこの最高裁の判断で関心を寄せているのは、MtFさんについて、身体が男性で自認は女性だというトランス女性についてだ。

メディアがFtMさんばかり紹介するのは、申立人がFtMさんだったからかもしれない。
でも反対する立場のひとはMtFに恐れを感じている。

そこに論点を向けたくない誰かがいるのでは?
不都合な事実でもあるのではないか?

そう勘繰ってしまうほど、メディアに出るのはトランス男性ばかり。
意図的に、トランス女性を避けているかのように感じた。
だって、FtMさんだけじゃなく、MtFさんだって、この判断にとても注目しているはずで、当事者のはず。
これでは、まるで仲間外れじゃないか。

差別だと、トランスヘイターだとされ、発言権を失くしてしまいそうな、生得的女性たちのように、メディアに声が映されることがなかった。
トランス女性の彼女らはどんな風に見ていたのだろう?

LGBTQの活動家さんに聞きたい。
ノーディベートで何に安心すればいいのでしょうか?
何を理解すればいいのでしょうか?

議論も質問もさせてもらえないで、懸念を示せば差別主義者。
話し合いすらさせてくれない相手の何をどう理解すればいいのか、本当にわからない。

むやみ恐れるな、悪用するひとなんていない。
そんな風に言われても……。
オートガイネフィリアは?
トランスレズビアンは?

海外で起きているトランス女性による性犯罪をなんて説明してくれるの?

むやみに恐れているわけじゃない。
実際に、議論もままならないままに押し進められて、行き過ぎたジェンダーの教育によって海外では実際に問題が起きている。
トランス女性による性犯罪も起きていて、加害者の割合は生得的男性よりも多いなんて事実が海外に在るのに。

これら、女性の懸念が、事実無根で、むやみな恐れなのでしょうか?

J.K.ローリングさんの国の世論も変わりつつあるこの課題を、どうしてそのままに、同じ轍を踏む形で実現しなければならないのか?

「性の多様性」の先進国で様々に露見した問題の議論を尽くしてから、法整整備を検討してはくれないか。



わたしの考える「フェミニズム」

わたしが「フェミニズム」を知ったときの理解は、
男女の差別をなくすこと、男女の理解を深めること、
助け合い、思いやり、ひとの「個」を尊重して生きる世界を目指すもの。
誰もが自分らしく生きることができる世界。
男尊女卑、女尊男卑、そんなものは存在しない世界。
「差別」と言う単語が死語になる世界。
平和、平等、誰もが当たり前に人権を尊重して暮らす社会。
だったのだ。

第一印象と言うか、そんなもの。
ふわりとそう考えて「いいなあ」と思った。

なんとなく、エマ・ワトソンさんのこれまでのスピーチとかを読んでみていた夜。
基本的にものすごく賛同することばかり。まさにわたしの思うフェミニズムのようにも感じたりした。

でも、Twitter(現X)をはじめて知ったのは、
ネットを漂う中には、過激フェミが溢れ、男など要らない!と男性蔑視がフェミニズムであるかのような主張ばかりで、心底ガッカリした。

わたしの理解が間違っていたのだろうか?
そもそも、わたしは改めてフェミニズムを学んだこともない。
むつかしい専門書も、簡単な漫画の入門書すら読んでいない。
ふわりと知った、基本理念を、なんて素晴らしい!と感じた。

ネットにある文献的なのなら読んだけれど、賛同できる!と思える流派?みたいなのはラディカルフェミニズムくらいだった。

身体的な差を考慮した相対的な平等は如何?

まず、前提として、男女では身体的な特徴が違う。
脳内での思考の方向性(性に関する価値観で顕著に表れる)も違う。
ホルモン的な影響による情緒なども違う。
行動の動機付けさえ違う。
そして前提である、身体の体格の差、体力の差、腕力の差は、どうがんばっても埋められないものだ。

そして、現在、女性にしか子供を産む能力はない。

わたしは、男女がそれぞれの得意分野を活かして、尊重し合い、みんなで生きていける世界をフェミニズムは目指しているのだと考えていた。

奇麗事だけれども、簡単に言うと、嚙み砕き過ぎなのだけれども、みんな仲良し思想がフェミニズムだと思っていたのだ。

でも、フェミニストとミソジニストの戦いで、男女の戦いの構図がくり広げられている。
男が悪い!女が悪い!と批判し合って何も進まない。
まさに思考の方向性が真逆だったと表れだろう。
どちらも相手を、馬鹿だ、感情的だ、知性がない、幼稚だ、そう言って譲らない。
もはやどっちもどっちだろうと。

ただ、アンチフェミ界隈には女性もいて、フェミニズム界隈には男性もいる。
男女の違いと言うよりは、やはり「思想」としての違いなのだろうか?

でも、フェミのあまりの過激主張には、わたしの理解が間違いだったのか?と思ってしまう(なにせ、文献を読んでいないにわかなので)。

アンフェ界隈にもときに納得な意見がある。
それでも、男性が多いアンフェ界隈の真ん中にあるのは「如何にしてモテるか」「如何にして女とヤるか」という「性欲」というものが重要な位置を占めており、切っても切り離せないものとしてあるらしく、どうにも馴染めるものではない。
(フェミニズムではないのだから、女性の性を消費する側としての意見であることは、当然ではあるのかもだけれども、消費される側の性にあるから、受け入れ難いものが多い)

ただ、フェミニズムは女性のみが唱えることが許されたものだ!なんていう、女性の主張も見たけれど、それにはわたしは大反対だ。
女性の権利を充実させるためだけものというのも違うと考えるし。

奇麗事だ。理想論だ。そう言われると思う。でも。
男女の関係を性的なものだけで捉えるのではなく、人間性で結びつくものとして捉えるものだと考えて、フェミニズムを良いと感じたのは、確かにわたしの勝手な理解かもしれない。

女性が自立し生きてもいい。もちろんだ。
でも、つまりはそれぞれの幸福の追求をそれぞれが自分の意志で出来ることだろう、と。
パートナーのために尽くすことが幸せだという男女もいて当然なのだから。

その意志が本当に自分の心から生まれたものであるなら、正常な精神での判断であるなら尊重したい思いしかない。

ただ、そうでないかも知れないことを、確かめる術がないから難しい。
本人にすら理解できないことがある。
トラウマに起因したりする行動では幸福とは言えないと、自らの経験を基にわたしは考えているから。

ジェンダーの平等にも、性自認にも、悪意が混ざらなければ、悪用する輩さえいなければ、良いことなのに、と思う。

オートガイネフィリアがトランス女性の権利を阻む困った存在ではないか?

そもそも、自分らしく生きることに他人の許可がいる、というのことが大きな問題に感じる。

ジェンダー平等に、身体の差を考慮しないのは、さすがに違うのではないか?
けれども、どうにもLGBTQ活動家の意見に、その差を考慮する部分がさっぱりない。
心の中の認識を他者に押し付けて生きることが、彼ら彼女らにとって全く苦ではないのか?と、そうだとしたら何だか、悲しい。

まず、男女の身体的な圧倒的な違いを無視した平等なんて、もはや平等ではないだろうに。

(とかいうと、男はガテン系やら体力の優位性を使って働く!女は産み育てよ!がわいてきそう……)

わたしは、男女の平等に関して、相対的な平等が真の平等ではないかと考えている。

割り勘でもよく男女で問題になるけれど、
お互いの収入から割り出した相対的な割り勘にすればいいのに。
食事なら食べた分払うでいいじゃん。

わたしはタダというものが怖い。
いつか「恩を返せ!」と脅迫される未来を想像してしまうから。



「1人の人間」として付き合えたら

エマ・ワトソンさんの話に戻る。

エマさんは「1人の人間」という言葉を使って話していた。

わたしもひとと接するならそうでありたいと思っていたし、みなが「個」としての生き方が出来ることは素晴らしいと、フェミニズムの概念に出会った当時のわたしは、まさにそう(フェミニズムを)理解したから推したいと思ったのだ。

すぐに現実を見てウンザリした。

ただ、エマさんのように言うには、あまりに世の中には悪意が溢れていて、やはり奇麗事であると思うのだ。

トランス女性がまったくの男性の姿のままで女子トイレに、女湯にいても動揺もしないでいられるのか?
もし、この先、海外のようになって、そんなことが起きたとき、日本の女性たちが、動揺を見せたりしたら、差別だと言われる?

エマさんは、そのトランス彼女から性暴力を受けてもそう言えるのだろうか?
そうならエマさんは聖人なのだろうと思う。
神の如き清い心。他人の悪意すらもその御心で包み込めるのか、と。

これはまた別の話なのかもしれない。
性善説に基づいて行動するならそれで正しいのだ。

でも、散々、日本の女性たちは自衛を求められてきた。
性暴力に遭わないように、自衛して!と言われてきた。
最悪の場合を考えて自衛しないと、自衛にならない。

わたしは、身体男性から受けた、犯罪行為でしかないもの(立証できないので嘘松呼ばわりも仕方ない)で、その恐怖心に抗えない。
身体が男性であるのに女性です!と言わない人間を黙らせる態度のヒトを、エマさんのように、穏やかな笑みを湛え「当然に同じ1人の人間です」というようにはとても受け入れられない。

それは一部の暴力的な人間がいたからで、善良なひとには甚だ迷惑で不快だろうとは理解する。

それを尊重してほしいなどということも、関係のないひとからしてみたら、迷惑で不快でわがままでしかないのだろう。
わたしの安全が欲しい!と叫んだところで、お前ひとりの安全が脅かされようが知るか!で終わる話なのだ。

でもその発言そのものが、まさに人権意識の低い日本社会なのだと思う

おもてなし、助け合い、礼儀正しい、日本の国は「性進国」「ポルノ大国」「性の搾取に寛容」な国だ。

性の開放なんて、本当に馬鹿馬鹿しい。
なぜ性的なことへの探求を、社会で大っぴらにしようなんてするのか?それが心から好きな男女のみでやればいいだろうに。布教されたら迷惑だ。

謎の包括的性教育なるものが、快楽を率先して教えたがるのがさっぱり理解できない。
知るべきことは別にある。
現在の大人すらよく知りもしない「生理」「妊娠」「出産」「避妊」「性感染症」「同意の正しい意味」「お互いを尊重すること」そう言った正しい知識を教えることに徹するべきで、それ以上に必要な性の教育なんてものがあるだろうか?

その基盤は「思いやり」でしかないと考える。

日本人は親切だ、なんて言われるけれど、本当にそうだろうか?
日本人は他人の評価を気にするからこそ、親切に振る舞いたいのではないか?
自分がそうしたいのではなく、そういう自分だと他人に思われたいからでは?

もちろん、本当に親切なひとはたくさんいるし、大多数が困っているひとを放っておくことを嫌だと感じるひとが大半だろう。それが人間らしさだと思う。

個人がみな、自分らしく生きる世界をフェミニズムと理解し、ジェンダー平等も性の多様性も、それに付随し良いものだと感じた。

わたしの人生が善良なひととの出会いだけでできていたなら、これらを激推していたと思う。
エマさんのように、推せたのかもしれない。
わたしの狭量をぶちまけているだけなのかもしれない。



SEXとGENDERは別のもの

平等であっていいのは、ジェンダーであって、身体の性別ではない。
身体の性によって明らかな違いがあることを無視して、平等なんてあり得ない。
だから、相対的な平等が真の平等だと考える。

そして、エロはこそこそと隠れてヤっていれば、わざわざ公に糾弾されることもなかろうに、と思う。
それこそ、静謐に守っておいてほしいものだって世界にはあるのだ。

パートナーと良い関係を築いて、友人と分かち合って、それで満足できなくなった人間は、どんどん人間らしい部分を捨てていくのではないか?

もしや、この先、それらが新しい人間らしさになるのだろうか?
残虐性も、加虐心も、支配欲も、新たな文化となってしまうのでは?

それらはもとからあったのかも知れないけれど、抗うことができることが人間らしさであったはずだと、わたしは思う。

幼稚化する人間の変化を、進化と呼ばせようとしているのは誰なのだろう?
思考をやめつつある人間を統率し、得をするのは誰だろう?
至極真っ当なことすら差別になる。

女性たちの言う「ガラスの天井」は確かにあるだろう。
でも、男性たちには「ガラスの地下室」というものがある。

男女どちらがより優秀で、どちらが劣っているのか?
それを争うことこそが馬鹿げているだろうに。

「1人の人間」であるのに、
男でありたい、女でありたい。
男らしくありなさい、女らしくありなさい。
男と女にこだわることこそ多様化する性の前では無駄
であろうに。

それでも、自分らしくあることに、身体の性別は考慮せざるを得ないだろう。

ジェンダーの平等なんて本人の自由だ。
正直、それぞれに価値観だって違うし共用することすら無理なものだと感じる。
ひとりひとり違う感覚をそれぞれに他人に理解されなければいけないなんて、無理だ。



静謐に守られることこそが文化であったもの、解放の是非

話は逸れる。

わたしは、ロリータファッションに身を包んだ少女たちを遠くから、まあ素敵!かわいい!と思ってしまう者だ。

そんな少女たちは、自分の好きなファッションに身を包み、その界隈で慎ましく愉しんでいる。

そういう、閉鎖的な世界であるからの楽しさがある。
閉鎖的であるから故の団結、仲間、空気、意識の共有、暗黙のルールと秩序、そういうものってあると思うのだ。

なぜ、それを社会全体に広めなければならないのか?

わたしはかつてのオタク文化の慎ましさが好きだ。
理解されなくても自分はこれらが好きなのだ!と一般社会に蔑まれても、続いたその文化。

現在の、萌えだなんだ、市民権などいらなかったのにな、とわたしは思う。

別にLGBTQコミュニティを理解したくないわけでもなく、理解することが許されるなら是非ぜひ知りたいことはたくさんある。

でも、無理矢理に理解させられることには抵抗がある。

そのひとの内面のデリケートな部分を押し付けられることは恐怖だ。

わたしは、性被害を話すことで何人ものひとが離れていった。
話してしまったわたしが悪い。自業自得で、仕方ない。
背負いきれない、責任は取れない、自分を犠牲には出来ない、その判断は尊重するしかない。

わたしの内面を押し付けていいはずがないのだ。
お互い「1人の人間」でしかないのだから。

その意思決定を尊重し合うこと。
知りたくないの意思を無視してはいけないはずだ。
知らないでいることを選べないことはとても怖い。

他人のデリケート内面を何もかも肯定的に捉えなきゃならないなんて無理だ。

一時期話題になったペド差別がまさにそれではないか?
実害がなければ良いはずだ!はそちらの考えで、こちらは知ってしまったら恐怖なのだ。



「1人の人間」として尊重することは、すべてを分かり合うことではない

お互いに、相手を嫌う権利があって、相手の嫌だを尊重していられて、関係性ははじめて対等になるとわたしは考えている。

わたしが全力で嫌い、許さないものは、暴力というすべての行為と、その言い訳だ。
「1人の人間」として尊重するからこそ、暴力を振るい、正当化するひとを許さない。


1021新宿のマーチの映像を見た。女性と子供の権利のための活動だ。
参加したい思いはあっても、体力的にとても行くことができない。
その場の空気を知ることは、何より現実を肌で感じることができる。
でも、わたしは、あの場の空気に晒されることに耐えられる自信がない。
映像だけでも十分に恐怖で、ヘイトだ!と詰め寄る男性の怒号に負けずに声を上げる女性たちに、心からの敬意を贈る。

そのマーチを取り囲む、LGBTQ活動家たちの暴言のような怒号、態度から見るに。
平等も平和も遠いと思はざるを得ない。

男と女は戦うしかないのか?
数値化してデータ化して平和と平等のマニュアルが必要なのか?
思いやりの手引きも必要なのか?

アホくさ!そんなの、人間の退化の証明だろ!って切って捨てたい気分にもなる。



「思いやり」が人間関係の基本

思いやりなんてふわっとしたものは理想論だってヒトもいる。
ふわっとしていて掴めないから。見えないから。共有するのも難しいものだって。

けれど、思いやりはふわってしているのに、誰もが少しずつ共通した認識で繋がっている不思議な概念だ。

思いやりを失くしたら、人間の尊厳や基本的人権も、同時に無くなるということを、考えたことはあるだろうか?

現代の人間はマニュアルがなきゃ思いやれもしないのだろうか?

そんなはずはない。だって社会のみんなが「ふわり」としたその概念の端っこを掴んで離さずにいるから、人権や人間の尊厳が守られているのだから。
社会の中にある細々とした秩序のようなものすらもそうではないだろうか?

メディアは心の性別を尊重することは素敵なことだと言う。
わたしも本当に自分の性別への違和感で苦しむひとの気持ちは尊重したいと思う。

でも、自身の身体に違和を抱いて、その身体のまま生きて、自分の違和を他人に違和と言わせないように強いて、わたしはそんなあなたとは友達にはなれそうにないのだ。

その違和を、共感したり、なんだかねえ……って話すことならできるのに。自分の身体はたまたま男/女だけど、心はたまたま女/男だったんだよね……って。
けど、身体的な特徴より心の性を優先して、身体的は特徴はまったく意識しないでね、なんて、無理だ。

それともこれも悪しきルッキズムの一部なのか?

「性の多様性」が全く多様でないことが疑問

どう考えてもトランスジェンダーの主張が性の多様性と一番遠い気がするのだ。

自分の社会的、文化的な性にこだわりが強すぎる。
どうして男女どちらかでなきゃいけないのか?
どちらかにカテゴライズされたがるのは、なぜ?
「個」としての自分はいないのか?
「個」としての自分が「わたし」ではだめなのか?


そもそも、身体の性でなくてジェンダーに違和がないひとなんているのだろうか?
社会的・文化的な性に納得できないことがあるのは普通のことではないか?

性差別っていうのは、社会的・文化的な性の役割の認識から来るもので、そこに疑問とか、納得できないとか当然にあると思う。

スカートは女性 → 自由でええやん
スーツにネクタイは男性 → 自由でええやろ
可愛い好きは女性 → 自由にせえ
カッコイイ系がいい → 自由にせや
女性スペースに入りたい → ……なぜ? 身体の性には違和ないやん

身体の性に違和があるなら、まだ女性スペースに……も理解できる。
でも、社会的・文化的な性のジェンダーに違和があるっていうトランスジェンダーは身体の性に違和も無いのにどうして身体で分けられたスペースに入りたいのだろうか?

社会的・文化的の性ではなく身体の性で分けられた空間なのに、どうして?
社会的・文化的な性のジェンダーに違和があるなら、それを自分の「個」とすればいいと思う。
社会的・文化的な性のジェンダーバイアスなどの認識を変えるべく動けば良いのではないか?

なんで戸籍の性を変えなきゃなの?
そうしたら身体的特徴は生得的性を持つ人より劣った能力のその性別のひとになる。
トランス男性は、体格や腕力や体力に劣り、射精の能力はない。
トランス女性は、体格や腕力や体力が明らかに有利で、妊娠出産にまつわる能力を持たない。特例法から外性器がそのまままで良いとなるなら、ペニスを所有したままになる。

不完全に擬態することを、他人には完全にそのものであるように扱ってください、配慮してくださいって……。
上記を見ればわかるだろうが、トランス男性には、もとより男性に対して加害すること自体、少し難しい。
が、トランス女性は、もともとの女性に容易に加害できてしまえるのだ。性的な加害すら、男性からと同じ要領で、むしろ男性より容易にできてしまえる(海外で起きた事件がまさにそう)。

社会的な役割、文化的な認識、に違和感なら、ジェンダーバイアスを取り除く、それでいいのではないかと思うのだけれども、違うのか?
どうして、身体的な特徴で分けることによって、加害されないように作った安全な場所、避難所でもある女性スペースに入らなきゃならないのか?

ジェンダー平等ってそういうことなのか?



昔、友達としていた、彼女/彼を思う

20歳の頃、年頃が同じ、性同一性障害の診断がせれている、身体が女性の友人は、自認は男性、FtM、トランス男性の立場の友人は、男性からの加害を恐れてた。

自認が男性でも、腕力と体力と体の大きさに、もともと女性の身体の自分は敵わないから、生得的男性は恐怖対象にもなるのだと。
自認しても変わらない、身体の差がある。
どんなに願っても努力しても超えられない壁があることに、友人は悔しさに涙した。

その涙にまざまざと知った。
ぼんやりと想像していた性同一性障害の現実を。

ホルモン治療で理想に寄せても、
手術して限りなく理想に近づけても、
戸籍をも変えても、
どんなに筋力トレーニングを積んでも、
彼女は彼女の望む男性にはなれない。
友人の涙で、わたしですら理解してしまう深い絶望だった

LGBTQの虹色の活動がはじまったとき、トランスジェンダーさんはそれを抱えて生きている。そう思っていた。わたしの無知ゆえに。

SEXとGENDERはまったく違うと知ってからは、たくさんの「なぜ?」が渦巻いている。
そして答えを誰も教えてくれない。
ノーディベート。議論はしない。反対意見は差別、ヘイト。

性の多様性は、性別に関係なく自分らしく生きることと理解したら、本当に良い概念だ。

でもなぜか、
「男と女、あなたはどちら?」と新たにカテゴライズし直すことが重要であるみたいな主張がくり広げられている。
子供たちにも、小学生にまで「あなたのジェンダーは、男の子よりかな?女の子よりかな?」なんて話す。

性はグラデーションと言い、男か女でどちら寄りかな?と、単純に男女の生き方しか存在しない中でのグラデーション。

やっぱり性別は男と女しかなく、どちらとして生きるのが自分らしさか?という話。

その程度の多様なあり方を「性の多様性」と呼んでいたのかと心底ガッカリしているのだ。それのどこが多様な在り方なのだろうか?
どうしてわざわざ、そんなことを自覚して見直さなければならない?
そのままの自分の「個」で生きればいいじゃない。


亡くなったりゅうちぇるさんは、よくジェンダーバイアスについてメディアで語っていた。
性の多様性はそれらを無くすことだと理解したから、素晴らしいと感じた。

蓋を開けたら全く違う。

男だから、女だから、そのジェンダーバイアスの型にわざわざハマりにいくような多様性には、絶対反対、違和感しか無い。

SEXに違和感があるのか?
GENDERに違和感があるのか?
この違いはあまりに大きい。
混同して考えるのは、当事者に対しても失礼に当たると、わたしは思う。

わたしの性別は女性です。身体も心も女性です。
社会的・文化的なジェンダーとして、女性の人権を社会全体で考えてほしいし、そうしようよと訴えたい。
日本の女性としてのジェンダーには不満ばかりあります。
性暴力についても、様々に軽視されている問題があります。
でもやはり、その多くが収束するところは「性」という認識が軽い者ものであるからに辿り着きます。

女湯には、もとから、性加害を受けてから、入ることもありません。
他人に、性別は関係なく、裸体を晒すことが苦痛だからです。
正直、身体男性の露出狂に遭遇する方がマシなくらいです。

湯浴み着で隠せばよいなんて、ものすごく、失礼で、その見識を疑わざるを得ない発言をなさった男性のコメンテーターさんがいらしたらしいですが、本当に、いろいろと浅いですね。
男性の考えと女性の認識の差なんでしょうかね。

余談。
天皇家の方が「自認の性」を表明したときに、何が起こるのか?という話を想像すると、あまりに社会が一変してしまうことに感じる。

https://note.com/hakoko_wf/n/n0f4855f16cbc
「特例法の手術要件」が完全に撤廃されるなら

ハココ

2023年10月28日 00:15



だが、「必要な治療を受けた」ことはそのまま「性別変更を認めるべき」であることを意味しない。なぜなら、一口に性同一性障碍と言ってもその様態は多種多様だからである。この点を一緒くたにしたまま、性別変更前の妊孕性による出生がもたらす混乱は「極めてまれ」と即断するのは、あまりに軽率で無責任ではないか。

https://note.com/takeotamashiro/n/n080129290daf



 昨日のnote拙稿に賛同する性同一性障害当事者から、以下の「性同一性障害特例法を守る会」の声明が送られてきたので、転載する。

<すでに報道などで周知のことと思いますが、2023年10月25日、最高裁判所大法廷は、性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(以下特例法)について、その3条4号の「生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠くこと」(以下不妊要件)について違憲とし、また3条5号「その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること」(以下外観要件)については憲法判断をせずに、審理を広島高裁に差し戻しました。

まったく不当な判決ですし、また、この結果だけ見る限り、違憲となった不妊要件と、現状では未判断の外観要件との間の整合性を考慮していない、異常な決定であると言えるでしょう。裁判官のうち三名は外観要件も違憲という反対意見を述べており、広島高裁で外観要件も違憲という判断が出かねない状況です。

まさに「司法の暴走」と呼ぶべき異常事態です。国民の間では、この手術要件の撤廃についてはいまだしっかりとした議論もなされておらず、女性を中心に「男性器のある法的女性が、女性の領域を侵略する!」という恐怖と危惧の声が強く上がってきています。最高裁には残念なことに、このような声が全く届いていないようです。

今までは手術要件があるために、特に男性から女性への性別移行者(MtF)については、「戸籍性別が女性なら、男性器はない。だから女性スペースに入ったとしても、性被害の可能性が少ない」というかたちで、性別移行者の立場の理解の上に黙認・容認されてきたわけですが、この決定は大前提を崩す、極めて過激な判決です。

問題は実のところ、性的少数者の権利だけの問題ではないのです。性的少数者とそうでない人々との、それぞれの権利の尊重と調整の問題なのですが、この判決では特に女性の立場を軽視する論調が目立ちます。公平と正義を旨とする裁判官が、こんな軽率な判断をしていいのでしょうか?

実際、女性スペース・女性の権利と、性別移行者の人権の間での、個々個別の調整に関する議論はまったく不十分なものに過ぎません。女子スポーツについては、国際的な競技団体では「少しでも男性の思春期を経験した者は女子スポーツに参加できない」という、戸籍性別とはまったく無関係の「性別基準」が設けられています。「法的性別」は「すべて完全に生得的女性と同じ権利」であるとはけして言えないものであり、その法的女性の権利とは、個々個別の問題についての丁寧な議論と同意を以てしてしか、しっかりと調整できないものであるのです。

しかし、このような丁寧で開かれた議論はいまだありません。そのような状況で「戸籍性別と、身体的な性別特徴」とを分離することを法が認めるのならば、今まで漠然と「法的女性は女性」としてきた「社会的区分」が、個々個別の合意として一つ一つ論を立ち上げていかなければ、到底女性の権利と法的女性の権利とを調和させることはできないのです。このような責任は、けして裁判官が負うことができるようなものではないのです。

現在の日本には、まだ「手術要件」を外す社会的条件は整っていないのです。同様に、今回不妊要件と外観要件を別途に扱う判断がなされましたが、これも性別適合手術の現実からは、かけ離れた空論です。

外観要件に従って、陰茎を切除したが、陰嚢がある状況は、「女性としての外観を備えている」と言えるのか?

こう考えてみれば、不妊要件と外観要件を分離すること自体、机上の空論であることは明らかです。このような空疎な議論は、海外の性別移行手術の「常識」に通用するようなものではないのです。もし、この決定通りに不妊要件と外観要件を分離するとしても、MtF (男性から女性へ)の場合には、現実的な手術の術式の問題として、「外観要件を満たすためには、不妊要件も自動的に満たすことになる」か、あるいは「外観要件も違憲だ」という主張の根拠に使われるか、どちらかしかないのです。

またさらに、「専門医による診断」も、現実には極めて大きな問題があります。「一日診断」と呼ばれる、患者の言いなりで15分ほどの形式的な診断で、性同一性障害の診断書を発行するというモラルを欠いた医療が横行しているのです。これでは、「自分は性同一性障害?」と悩む当事者の救いとはならないだけでなく、医療側の「儲け主義」から安易に手術を勧めたり、また本来のガイドラインから外れたような性同一性障害ではない人がホルモン療法や国内外で手術をしてしまい、数年後あらためて後悔するということさえ普通に起きています。
この「一日診断」が当事者の利害と一致するかに見えて、実は正反対の極めて危険な医療モラルの崩壊でしかないのですが、さらにこの診断書を「お墨付き」であるかのように振りかざす、女性に危害を加える犯罪者さえ登場している(注1)のが現実です。まさに「性同一性障害の診断書」の医学的な信頼性はまったくないのです。このようなモラルの崩壊を裁判所は肯定するのでしょうか?

診断書が信用されるためには、診断の厳格化が必須です。同時に性犯罪や暴力犯罪の過去歴がある場合には、性別移行を認めない。移行後に性犯罪を起こした場合などは、性別移行の取消を含む処分を新設する。あるいは、性犯罪傾向を見逃した専門医の責任を追及し処罰する制度など、しっかりとした診断と医療を保証する体制を作らないことには、そもそも自己責任な「美容手術」でしかないと批判されるほどの信頼性を欠いている現実を、野放しに肯定するだけになってしまいます。

このように、現実の性別移行の社会環境は、ハッキリ言って無責任なものでしかないのです。このような状況で性別移行条件を緩和することは、逆に真面目にガイドラインに沿った診断を受け、ガイドラインに沿って性別移行のプロセスを踏んで、その上で社会に埋没する善良な性別移行者も、「性犯罪者と変わらない異常な人々」とみなされるような、特例法以前の状況に逆戻りするのは、火を見るより明らかです。
今年に入って、この問題が少しづつ取り上げられるようになったことが悪い刺激になったのか、「女装して性犯罪を犯す」人たちの事件が多数報道されるようにもなりました。まさに「性犯罪者の言い訳」に、性同一性障害が使われるという、真面目な当事者にとっては不面目極まりない自体がすでに起きています。
まさに、この性別移行条件の緩和は、性別移行者の人権の尊重ではなく、逆に性別移行者への偏見と迫害を正当化するような、悪影響しかないとまさに当事者は危惧しています。実際、「特例法が諸悪の根源だ」として、特例法自体の廃止を叫ぶ団体も活動を始めています。私たちがせっかく勝ち取った「性別移行の権利」が、その権利を悪用する人たちと、「かわいそうだから」で無責任に緩和しようとする「善意の人々」によって、台無しにされる瀬戸際なのです。

このような「性別移行条件の緩和」を、現実的な法運用の場面で許さないように、引き続き私たち当事者は訴えていきます。どうか皆さま、私たちの立場をご理解いただき、引き続きご支援を賜りますよう、また異常な判決を下してしまった最高裁に対する強い抗議の声を上げていただきますよう、性同一性障害当事者としてお願いいたします。

以上をもって、声明とします。
2023年10月26日
性同一性障害特例法を守る会

参考

(注1) 振り袖に“墨汁” 被告の男が起訴内容認める 弁護側「性同一性障害で晴れ着に強い憧れ」 福岡地裁支部https://yotemira.tnc.co.jp/news/articles/NID2023042717580

https://note.com/takahashi_shiro1/n/n1e392788d108
性同一性障害特例法を守る会の最高裁違憲判決への声明

髙橋史朗

2023年10月27日



性同一性障害をめぐり戸籍上の性別を変更する場合、生殖能力をなくす手術を必要とする法律の規定について、最高裁大法廷は「違憲」との初判断を示した。最高裁の小法廷は4年前、この規定を「合憲」としており、性別変更要件を緩和する大転換である。
 大法廷は、国民の意識の変化などを理由に挙げたが、わずか4年で国民の意識が変化したという根拠は一体何か?多数意見は「手術を受けずに性別変更審判者が子をもうけることにより親子関係等に関わる問題が生ずることは、極めてまれ」としているが、混乱は限定的だから問題がないとは言えない。
●今後の課題 

 最高裁はもう一つの論点であった、性別変更後の性別の性器に似た外観を備える要件については高裁に審理を差し戻した。性別変更の条件を緩和した結果、社会が混乱するような事態は避けねばならない。
 今後の家事審判や法改正など影響は甚大で、社会不安や混乱が生じないように、国は新たな法制度について、慎重に議論を尽くす必要がある。最高裁決定を受け、国会は特例法などの見直しを迫られる。医師による性同一性障害の診断を厳格にするほか、性別変更を認める際の新たな要件を設けるといった法整備が求められる。
 海外では元女性の男性が、人工授精によって子供をもうけ、出生登録を行った際、「父」との記載を拒否されたケースもある。こうした海外の現状や制度を十分に調査した上で、新たな仕組みやルール作りに向けて審議を尽くす必要がある。
 その際に、自らも性転換手術を受けて性別を男性から女性に変更した「性同一性障害特例法を守る会」などの反対意見にも耳を傾ける必要がある。同会は、1万人以上が手術を受け、手術要件が社会制度に定着しているにもかかわらず、手術を受けないで男性の姿のままで女性であるということが通じるのはよくないと主張している。
 同会は、「女性専用スペースに男性器のある女性が入ることが可能になったり、出産する男性が出てきたりして社会が混乱する」と訴えてきた。LGBT理解増進法が成立し、女性と自称する男性が女性専用スペースに入ることを正当化しかねないとの不安は払拭されていない。
 女性らの権利を守る団体など7団体は、手術要件を外せば、「社会的にも法的にも大変な秩序の混乱が起きる」として、合憲判断を求める要請書を提出していた。こうした声にも耳を傾ける必要がある。
●性別は自分で決められない一共通性と多様性の統合

 勿論、性同一性障害者の人権は尊重しなければならないが、個人が「性自認」に基づき、自らの性別を自己決定できるようになれば、社会秩序が揺らぎ、「性別は自分で決められる」という誤った認識や子供の「性的自己決定権」を強調する行き過ぎた過激な性教育の広がりに拍車をかけることは火を見るよりも明らかである。性別は先天的なものであって、自分で決められるものではない。
 読売新聞社説(10月26日付)が明記しているように、「性別は人格の基礎であり、現行法では一般に、生物学的な特徴によって客観的に決められる」。ところが、近年「性の多様性」や「性はグラデーション」という標語が教科書で強調され、教育委員会が作成した資料や教師用資料にも明記されるようになった。
 性別自体は男女のみであるという厳然たる事実(縦軸の“共通性”)と、「ジェンダー平等」という横軸の“多様性”を混同してはならない。「性は多様で、グラデーション」という科学的根拠はない。
 自然や人間には多様性があり、多様性を尊重しつつ、生物学的性差に関する科学的研究によって解明された性別は男女のみであるという生命の共通性との統合が求められる。横軸の多様な世界において、一つの価値観を認めると、自動的に他の価値観を排除せざるを得なくなるが、縦軸の共通性の視点も加えると、光吉俊二氏が発明した重ね算、動算の如く、包摂・統合する新たな視野が広がる。
 円柱は横から見ると長方形に見えるが、上から見ると円に見えて、対立する。しかし、斜め上から縦軸と横軸を統合する視点から見れば、円柱の実相が見える。
●脳科学・生殖科学・生命科学・行動生態学の科学的知見

 科学的に男女(オスとメス)に生物学的性差があることは明らかである。かつて、学会で対談した『脳の性差』『脳の性分化』の著者である順天堂大学の新井康充教授は、脳科学の視点から「脳の性差は、胎児期におけるアンドロゲンという男性ホルモンの影響の有無によって生じ、左半球と右半球を繋いでいる脳梁と前交連という脳の構造面の違いが『男の脳』と『女の脳』の性差を決定づけており、生物学的には『ジェンダー・フリー』というのは噴飯物だ」と断言した。
 性別の生物学的根拠については、日本政策研究センターの小坂実研究部長が『明日への選択』10月号で「『性はグラデーション』という詭弁」と題する論文で詳述しているように、以下の①生殖科学、②生命科学、➂行動生態学の専門家の科学的知見を踏まえる必要がある。
① 束村博子名古屋大学教授「動物のオスとメスにさまざまな点で差異があると同様に、ヒトにも生物学的性差があることは明らかである」(『ジェンダーを科学する』)
② 中村桂子(早稲田大学教授・大阪大学大学院教授を経て、JT生命館名誉館長)「単なる多様化ではなく、そこで生じる個体が、それまでにないまったく新しい組み合わせのゲノム(DNAのすべてに遺伝情報)をもつということ」(『生命誌とは何か』)
③ 長谷川真理子総合研究大学院大学学長「雄と雌のこの基本的な違いから出発して、雄が適応度を高める戦略と、雌が適応度を高める戦略とは、生活のあらゆる面において異なるものとなる」「(男女の性差は)社会や文化が強制しているだけの表面的なもの」ではなく、「生命という存在そのものに根ざした本質的で深いもの」であり、「性は、38億年の生命の歴史を背負っている」
●最高裁裁判官は国会同意人事にせよ
 また、櫻井よしこ氏は産経新聞(10月26日付)で次のようにコメントしているが、全く同感である。
<15人の最高裁裁判官が幾百世代もつながってきた日本の価値観や社会の根幹を変えようとしている。たった15人の判断でこんなに大事なことを変えていいのだろうか。
 日本では最高裁の裁判官について一人一人のキャリヤや考え方など詳細な情報はほとんど知られていない。指名・任命権は内閣にあるが、弁護士会枠や外務省枠などがあるのが実態だ。法津は日本国民の望む方向に社会をつくっていくためのものだ。なぜこんなに多くの国民が不安を感じ、多くの女性が信頼できないと思っているような方向に社会を変えていくのか、理解できない。最高裁の裁判官は国会同意人事にすべきだ。>

https://note.com/takahashi_shiro1/n/n1e392788d108
最高裁性別変更決定に異議あり!


髙橋史朗

2023年10月26日 11:37