様々な上達のコツの正体「他動感」

カメラマンのアラーキーの新書「写真ノ説明」を読んでいたら、こんなフレーズがあった。アゲハチョウの写真を説明したものだ。

「旅館からたまたま外に出て、アゲハチョウを追いかけていくと、天国っていうか、あの世に引っ張っていかれるような感じなんだ。こういうのを狙って撮ってるわけじゃないんだよ。だから撮らされたんだよ、チョウチョに」

このように、自分の意思ではなかった、という言い回しは、様々な達人の言葉の中に共通して出てくる。著名な「日本の弓術」では、ドイツ人の哲学者と弓術の先生の間で次のような会話がある。

先生「矢を放とうと思ってはいけない。的に当てようとしてはならない」
ヘリゲル「先生、それではどのように矢を放てばよろしいのですか?」
「無になって、矢を放つのだ。」
「何も考えないのであれば、誰が矢を放つのですか?」
「誰が射るかが分かれば、あなたは先生がいらなくなる」

先生は矢は射るのではなく射られるものだ、と繰り返し説明するのだが、強固な意思をもつヘリゲルは困惑してしまう。

アイデア術などでも、よく降ってきた、降りてくるのをまってる(大抵はグータラしている言い訳だが)といったフレーズがあるが、どこか、自分が考えたのはでない、という感覚がある。

この3つの例に共通しているのは、自分じゃない他人が自分を動かしている感覚だ。この感覚がないと、どこかぎこちなく、不自然なものが出来上がる。これはオカルトではなく、理屈でも説明できると思うので、これについて考えたい。

脳の仕組みについての名著「マインド・タイム」では、実験によって、意識の前に、無意識による身体の反応が起こっていることが証明されている。

つまり、何かをしようと思う時、実際にはその「何かをしようと思う」前に、何かがなされている。意識は実は観察者であり、自分が無意識に行動した結果を観察し、その行動を自分の手柄だと勘違いしている管理職なのだ。

そう言うと、自分はちゃんと意識して行動している、と思うだろう。ただそれは、意識しても行動できる、ということに過ぎない。ごはんを食べる時に箸をもって、箸をこのように動かそうと、いちいち意識して動かすこともできる。しかしそんなことをやっている日本人はいない。

話を戻すと、名人に共通する、自分ではなく誰かがやっている、という感覚は、意識と無意識の感覚が逆転していることから起こる。素人は、自分が意識して動いていると思うから、「自分がやっている」という感覚が強い。

反対に、名人はノウハウが身体に染み込んでいるので、意識に邪魔させず、勝手に身体を動かすに任せている。それを意識から見れば、誰か別の人がやっている、という感覚になる。

そしてそれは、脳の仕組みからみても順当な認識であって、自分がやっているという感覚の方が間違っているので、名人とは根本的な勘違いに気づいた人、とでも言えるかもしれない。

この方法がいいのは、この感覚を一つの芸事(仕事でもいいだろうけど)などで得ると、他に応用できる範囲が広いことだ。

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