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最高のじぶんであなたと一緒にいたい

190107

東京に戻ってきた。家出少女は表参道で朝を迎えた。
キラキラした街の中にいると、様々な欲求が伝染してくる。あれが欲しい。これが欲しい。この思いは、名の知らぬ誰かから伝染した制圧的な欲望か。それとも、心の声というものだろうか。I don’t know。欲しい、という思いが起きるのは自体は自然だろう(か?)。そういう時は逆張りである。欲しい、なら、まず捨てろ。思い立ったら吉日、荷物を置かせていただいている練馬の家に向かい、必要ではない服を2着捨てた。新しいものを迎え入れるには、そのためのスペースが必要だ。適度な欲望なんてあるのかわからない。しかし、身の丈を超えた物欲は醜く感じる時がある。美しいからと言って、たくさんありすぎると、身にあまると、途端に品がなくなる。わたしは花が好きだ。しかし、わたしの大切にしているターコイズの花瓶には百輪のバラは似合わない。

前回の投稿:迷った時はいつだってウルトラCだ。


良運を運んでくれる靴を選べ

上記のことの逆を行くようだが、ある程度のものは必要だとも思う。1年中を一枚の服で過ごすことをわたしにはできない。だから、更新する必要がある。常に、新鮮なものへと更新しているもの。思い浮かんだのは足元。2012年からSOUSOUというブランドの足袋を愛用している。わたしのトレードマークとなっているこの足袋靴。このチャーミングな足元のお陰で、様々な人に話しかけられる。何度もかなりいい感じのアトモスフィアを運んでくれた。足元まで見てくれて、そしてその靴のことを褒めてくださるような、そんな素晴らしい方々に出会えるので、本当に最高の靴である。この靴はわたしは様々な土地へ運んでくださるだけでなく、良運をわたしのもとに運んできてくださる。そんな嬉しい事情もあり、1年中わたしはこの旅を履いており、1年に数足のペースで新しい足袋に更新している。これまで何足買ったかわからない。そして、この足袋を気に入ってくれた何人もの知人たちが、このSOUSOUの足袋を愛用し始めてくれている。

(追記:今日入った学芸大学駅にある蕎麦屋「美やこ」さんでも、足袋のことで話しかけられました。味も、店員さんも、店の雰囲気も素晴らしいお店です。常連さんとの絶妙な機会話術に引き込まれ、もう一度足を運びたいと思わされたお店です。)

ものの在り様には人格が現れる

この数日間で、島、神社、海、山と足を伸ばした。都会も田舎も、喜びの時間も耐え忍ぶ時間も常に彼と一緒である。この靴はつねに足元からわたしを支えてくれている。そろそろ綺麗にしてあげたい。洗ってあげたい。それは足袋への敬意であり、長く使うためのコツであり。出会う人々への敬意でもある。わたしの母は小さい頃から「身なりを大切にしなさい」ということを伝えてきた。特に足元のことは何度も何度も「足元に人間が現れるよ」、だから靴は綺麗にしなさい。ということだ。それは大きく当たっていると思う。人は見た目じゃない、という言葉もあるが、足元が汚い人と出会うと「なんだかな」と思うことは多く、足元が綺麗な人は「いい感じだな」と思うことは実際多い。人によく見られたい。文字にすると小っ恥ずかしいが、事実だ。そして、足袋を、じぶんを大切にしてあげたいと思う。ということも、清潔な人間でありたい、と強く願う。身なりが先なのか、精神が先なのか。ものの扱い方には人格がでる。そして、普段使っているものの在り様は人格にも影響を与えるだろう。

(愛用している銀の匙から作られた指輪です)

72時間以内に、小さく行動を起こす

願うだけでは足りない。言葉だけでは足りない。これはこの頃何度も頭をめぐる思念である。つまりは、行動が必要である。人生即行動。なにかを思いついたなら72時間以内に、小さく行動を起こし続けること。これは肝に命じたい格言であり、実用性の高い教えである。そう、口にする、文字にするだけでは足りない。わたしは家についてから、クリーニング屋さんに向かった。今きている服を全て洗濯機にいれ、じぶんでは洗えない戦友なコートはクリーニング屋さんに連れて行った。すると、そちらのオーナーさんと思われるおじさまの丁寧な説明や、接客に心を打たれた。丁寧であるだけでなく、言葉に柔らかさがある。表情に、所作に、こちらへの思いやりが感じられる。1人の人間として扱われている。わたしも彼にそのようにして接したい。普段から彼のような人との付き合い方ができるようになりたい。

願うだけでも、言葉だけでも足りない。72時間以内に、小さく行動を起こし続けること。(自戒を込めて、もう一度)

丁寧をチューニングする

初対面のひとと接する時、わたしは警戒心が強いからなのか、丁寧であろうとしすぎる。初対面の方から、タメ語を使われると、うっ、てなる。怖いのか、苛立ちなのか、距離感の違いか。はたまたマウンティングだろうか。じぶんがして欲しくないことは、相手にもしたくない。なので、わたしのデフォルトは、丁寧語である。しかし、時にそれが壁となって、仲良くなりたい相手と、仲良くなることの障壁に感じることがある。わたしの丁寧さは、おどおどしている。根本に警戒心や、ひとへの恐れがあるからかもしれない。しかし、今日であった2人の接客からは、わたしへの恐れは感じなかった(こう書くと、馬鹿みたいだな)。お店の人がお客さんにいちいち恐れや警戒心を抱いていたら、大変だと思う。が、彼らはこちらの心にすっと寄り添ってくるような、技(と言っていいほどのもの!)があった。見習いたい。

最高のじぶんであなたと一緒にいたい

あなたは、お店ナドを利用した時、どのような風に接客してくださる方に接するでしょうか。わたしは、できるだけ接客される時には「よくありたい」と思う。接客の中にある小さな気遣いに気づきたい。それが嬉しいもの、心地よいものだったら、可能な限り伝えたい。しかし、饒舌になって話すぎるのは違う。それはうざい。ただ「ありがとうございます」の一言だけでは、その言葉を何に向けてなのかが伝わらない気がする。言葉の長さだけでなく、どのような口調で、雰囲気で、タイミングで伝えるか。もしくは伝えないか。間合い、と言うのだろうか。会計でお金のやり取りをする時に、相手の方にどのような目線をやるのか。手元のお金だけに目線を送るのは、目の前にいる相手に対して失礼だと感じる。しかし、だからといって相手のことを見すぎると、変な感じになる。力んだ目で相手を見ることになり、変な空気が流れる。こんなことを考えているから、ぎこちないのかもしれない。時々「こちらを見すぎている」と言われることがある。ああ、書けば書くほど、2人が偉大に感じられる。クリーニング屋のおじさま、蕎麦屋のお姉さま。今日はこのお二人に人との接し方について教えていただいた。人にされて嬉しいことを、わたしも人にしてみたい。しかし、独りよがりに押し付けるのではない。じぶんのスタイルを見つけたい。堂々とありたい。最高のじぶんを、堂々と、相手に提供できる人間で在りたい。

(この写真は秋月良樹くんに撮っていただきました。)

いただいたサポートは、これまでためらっていた写真のプリントなど、制作の補助に使わせていただきます。本当に感謝しています。