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無意識は作品に潜るか

こんな夢をみた。
階段だらけの変な家にいる。5階建て、初めての家だった。
偶数階(2,4F)は風呂になっていて、1階は玄関につながる8畳ほどの洋室。
ほかの奇数階(3,5F)は両方ともベランダになっていて、ぼくは黄昏ていた。
急に用事を思い出したのか、急いで身支度をはじめ四階の風呂に向かう。は
そこには小学生の同級生だったTSくんのお母さんが湯船に入っていて、やあ、と言う。
それを無視して二階の風呂にいく。風呂から出ると階段一つづつに丁寧に水たまりができていた。
服を取りに五階のベランダに向かうと、そこは船着場に変化していた。
クルーズに乗りながら、ぼくは待たせている誰かの元へ向かっていた。
このままでは遅れてしまう。と焦りながら、その人に遅刻の連絡をしようとすると、
携帯がないことに気がつく。携帯には船を降りた後に搭乗する予定の飛行機のチケットも入っているのに。
ぼくはこのままでは間に合わないと思い、船から水に飛び込んだ。



つい先日まで展示をしていた。
いくつかの作品、複数の意味。
作品を作る上でコンセプトや構造を決めて作品を作った。
だから、じぶんなりに作品の意味や解説を行うことが可能だった。
だがしかし。何度もしゃべっているうちに、「あれ、違うぞ」ということや
「意味の歪み」ということが生じる。そして、説明できなことにぶち当たる。


Q「なぜ、ここの座布団は真っ白なんですか。他は安産なのに」
A「それは生まれて来てほしくないからです」
   「余白です」


こんな風にやりとりをしていたけど。
ぼくは作品の全てを把握していない。
むしろ、意図的に作ったものですら、その背景には違った意味が隠されているのではないか。


作品をどこまで意味で縛るか。ぼくの意識に上がらないものたちが、作品にはいるのではないか。


来てくれた人はわかるけど、ぼくは多重露光やブリコラージュ、といった手法を使っている。これは、クランボルツ教授らが提案した「計画的偶発性理論」に個人的には繋がると考えている。この理論は一般的にはキャリア形成の文脈に用いられるが、個人的には作品をひとつの人生ととらえており、そこに偶発性を持ち込み、作品を良いものにしたいと考えている。また、シュルレアリスム的な思想もぼくは強く、夢と現実の矛盾した状態を同居させていたい。「今は、私1人では、説明できなこともその作品内から排除したくない」と言うことである。


夢。
高校生の時にフロイトの夢分析に関する本を読み始めた。
夢には普段は抑圧されている無意識が現れている。
無意識は力動的なものでどうがんばっても意識化することはできない。
無意識は、夢、失錯行為、神経症などにあらわれるそうだから、
それらを分析することによって、無意識を探求して行くことができる。



絵を書くこと、写真を撮ること。
なにかを作ることは、その創作物から、無意識を探ることが可能なんじゃないか。
なんとなく書かれた青い丸や、ヘンテコな色使い。どうしてここに十字架を書いたんだ。
上の質問にあった「白い座布団」だって、無意識的な意味があるように感じられていて。
ほかにも質問されたことや、僕自身でわからないこと、そしていくつかの失錯行為が展示では散見された。



生きている中で、本当に毎日、失錯行為(まちがえ)がある。
そして、ぼくにはいくつかの神経症があるし。
また、防衛機制として反動形成、回避、合理化、知性化なんてしょっちゅうだろう。
作品の説明をしている時に、
「なにか違うんだよな」と思うことが頻繁にあった。
説明してしまうと、ぼくは無意識的に隠したいことを鑑賞者に見つからないように、うまくdefenseしている感じ。そこを解き明かして生きたいのに。だから、来てくれた人が好き勝手言ってくれる状況の方がありがたいかもしれない。

いただいたサポートは、これまでためらっていた写真のプリントなど、制作の補助に使わせていただきます。本当に感謝しています。