コンドームと紙袋

今日コンドームを買った。その際に、紙袋にそれを入れられてしまうのだが、しっかりとそれに「いりません」と言いたい。否、言いたかったという"過去形"が今回の投稿の趣旨である。社会がそうであるべきだ!ではなく、個人の問題として、「いらないものに対していらない」と言いたかった。それ以上でも以下でもない。日々の中には探せば無数の違和感があるのだろうけど、小さな行動、一声によって変えられることはたくさんある。なんなくひっくり返せることを、「なんとなく」の「流れ」で「社会はそういうものだから」という(一方的な諦めな)理由で、自分の意思に反するのに、続けてしまうことに、どうにか抗いたい。小さな妥協は、知らず識らずのうちに精神を食う。魂にカビを生やす。(大げさかもしれないけれど、紙袋一つに、そういったことを考えてしまう。)


ことの顛末(というほどでもないけれど)はこうだ。散歩の帰り道にドラッグストアに立ち寄った。「店に入ればなにか思い出すだろう」と、安易に店内に侵入をした。そういえば、と思い出したように、歯ブラシのコーナーへ。そして、レジに向かう途中に炭酸水(私の好物である)とコンドームをカゴに入れて、彼ら3つをレジに持って行った。


レジに足を運ぶ時から、「きっとレジにこの3つを置いたら、コンドームだけ紙袋に入れられるんだろうな」ということを考えていた。つい先日か、数ヶ月前かわからないが、生理用品を紙袋にいちいち入れる文化はなんなのかということを言っている人にあった。それは路上かもしれないしTwitterかもしれない。その人は、それらはわざわざ紙袋にいれられる必要、つまりは隠される必要があるのか?(いやないでしょ!と)ということを言っていた。その意見に出会う前から、私自身も紙袋はいらないと思っていた。簡単にあげると次のような理由である。


1)別に隠すようなことではない(と個人的に思う)
2)袋にいれてもらう時間がもったいない(さっさとレジから移動したい)
3)袋がもったいない(家に帰ったらすぐ捨てるし)


私は以上のような理由で、別に紙袋にいれなくていいだろうと思っている。ので、逆に、どういった理由で、彼らを袋にいれるのか、いまいち納得できない。世間的にそれは恥ずかしいことなのだろうか?社会通念としてコンドームや生理用品は紙袋に入れられるということが周知であるので、ドラッグストアから紙袋を持って出てきたら、むしろ「買ったんだな」と思われはしないだろうか?などとも考える。また、他にも購入した商品があるわけだし、たとえ透明なレジ袋(もしくは手持ち)でそれらを家まで運んだとして、その途中にであう他人に、いちいち「この人はこれを買ったんだな」などとは思われない。私は街で歩く他人が何を買ったかなんて関心を寄せないし、他人も私に対してそうだろうと思う。

だから、レジに向かう前から店員さんに「あ、それ袋にいれなくていいです」ということを伝えようと思っていた。力んでいたわけではなく、「どうせ入れられちゃうだろうけど、別にいらないし、その手間もいらないから早く家に帰りたい」と思っていた。レジは2つ空いていた、頭の中で「どのような性別の店員さんだろうが、おそらく何も言わずに紙袋にコンドームをいれるんだろう。それをわざわざ私が「紙袋はいりません」と伝えることは、なにかしらの意味をもってしまうのだろうか。逆にセクハラになってしまうのではないか」などと考えてしまい、レジの前で数秒止まってしまった。

インターネットで検索をして見たら、こういった記事が出てきた。世の中にはいろんな意見があるのだなと思った。


「どうぞ」という声がしたので、立ち止まっていた足を、声が先にしたほうに滑らせる。レジに品物を置きお会計をお願いする。レジの方は、メガネをしていた。それ以外にはなにも思い出せない。すでに記憶のかなたにいってしまった、しかし確かに存在していたその方は、一番最初に炭酸水を。つぎに歯ブラシ、最後にコンドームのレジの機械で合計金額を出した。私に合計金額を伝えるとすぐさま紙袋を取り出し、コンドームをその紙袋で包んだ。慣れた手つきで大きめの薄い茶色の紙袋にそれを包み、セロハンテープを貼ろうとしている。

この手の紙袋は、コンドームや生理用品以外のものを包むことに使われることがあるのだろうか?この紙袋で包む、ということ自体が、内側に"それ"があることを示すというindexになっているのではないか。王冠から王様/Kingを連想するように、紙袋からはコンドームや生理用品が連想される。

19世紀アメリカの哲学者であるパースは、記号を「イコン」「インデックス」「シンボル」に分類し、インデックスはその指示対象と「物理的かつ直接的な」結びつきを有する記号であるとした。その際パースは、「インデックス」の代表的な例として写真を挙げている。なぜならば、ある対象の光学的な痕跡としての写真は、その対象のイメージを喚起するだけでなく、指示対象そのものとの物理的な対応関係を有しているからである。

引用源:https://artscape.jp/artword/index.php/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9


「そこまで厳重に、これを包む必要があるのだろうか?」と思った。その紙袋はコンドームをまるまる10個はいれられるよう大きさだった。だから、それを一番下に置いてから、数回紙袋をぐるぐるして、最後にそれを止めるためにセロハンテープまで貼った。包まれていく姿を見ながら今度は、違うことを連想した。まるで、giftだなと思った。私は普段から、贈り物をしたり、手紙を送ったりするのだが、それらが相手の手元に届くときに、最初からそれらがなにであるか。つまり、私が何を送ったのかを隠す、悟られないために何かしらの袋でそれを隠すということをする。ときには、二重三重にそれらを包み、物自体を相手に譲渡するのではなく、その譲渡の過程を楽しんでもらう(また、送り手の自分としてはそういったプロセスを発生させる作業、および届け手がそれを開封するまでの体験を想像することが一つの喜びである)という思惑がある。であるから、コンドームが丁寧に紙袋に包まれて、最後にはセロハンテープで袋のふちが止められるという作業をみて、おもわずgiftを連想した。

(また、わざわざプレゼントやギフトというカタカナ日本語を選択するのではなく、英語で、しかも、presentという単語ではなく、giftという単語を選んだことは、直感的にgiftという単語が「神から与えられたもの」という意味を含むということと関連しているのではないかと考えられる。コンドームは避妊具であるので、望まない妊娠を避けることと繋がる。また、AAA( act against aids)など様々な"望まないもの"から自分を遠ざけることができる。神から与えられたもの、つまりそれは、ある意味で避けることができない不可避なものであるが、それに対して人知の詰まったコンドームによってそれに対して対抗をする、人間の誕生をコントロールするという相反するベクトルを想像して、私はgiftという単語を選んだのかもしれない)

レジの店員さんが、あまりにスムーズに、紙袋を取り出し、giftさながらにそれを包むものだから、私はレジに行く前から「袋につつまなくていいです」という用意していた言葉を出すことができなかった(そんな自分を情けない、と責める必要はないぞ、とどこからか声が聞こえた)。何故?何故私は。何故その発言をすることができなかったのか。一つは、そういった発言が(逆)セクハラになってしまうのではないか?と思ったことである。私は今の時代しか知らないが、自分の発言というものは本当に気をつけないと(いや、気をつけたとしても)どこかで誰かを傷つけてしまうという可能性が非常に高い。

そしてもう一つは、あまりにも手馴れていたから、言葉をはさむことによってその機敏な動作を中断させてしまうことがためらわれた。紙袋に包む、というのは、今日私が足を運んだドラッグストアだけでなく、これまでいったどこのお店でもそうであったので、一種の社会常識なのだろうと思う。いま思い返せば、その機敏なベルトコンベアーのような流れ作業に口を挟んで、紙袋に入れてもらわないこともできた。(人は、こうしたなんでもないことに言い訳をみつけることが非常に上手だ。言い訳が上手い人間、ごまかしが上手い人間にはなりたくない。どうにかこうにか、じぶんが信じるまとまな人間でいたい。日々をごまかしたところで、他人はごまかせたとしても、じぶんはそれを知っている。だから、懺悔というのは、毎日毎日自分に対して行われてしまっているのかもしれない。)


お会計を済ませながら、「この紙袋別にいらないな。今度からはしっかり袋いりませんと伝えよう」などと思った。この感覚、どれだけの人が持っているのだろう。コンドームに限らず、たとえば、スーパーやコンビニで買い物をしたときに手で持てる量なのに、カバンをもっているのに、あたりまえのようにレジ袋にいれられる。いらないものを溜め込んでいる。様々な中に、いらないものが染みついているように感じる。


別に私はエコだから、という理由で「レジ袋っていらなくない?」ということを言いたいわけでなく、なぜ人々の時間(レジの方の袋にいれる時間、購入者としてアイテムが袋にいれられるのを待つ時間)を使ってまで、いらないものの引き渡し/譲渡/交換をしているのだろう?と不思議に思う。基本的には、お会計の時に「袋はいいです」と言わないと、袋をつけられてしまうので、私はなるべき袋入りません、ということを言っている。別にエコだからではなく、単純にその袋がいらないからである。ただ、それを考え事をしていたり、なにかしらの要因で、袋にいれられてしまうと、申し訳ない気持ちになる。


いらなものには、しっかりといらない。と言いたい。これは、コンドームの紙袋だけでなく、日頃の様々な慣習によってもたらされるたいして欲しくないものにも。そういったことを言えるようになりたい。こういった日々のちいさな違和感にたいして、ちいさくちいさく一石を投じつづけることが、非常に重要だと感じている。小さな妥協が、いつのまにか大きな怠惰となって押し寄せてくる気がする。



このような話題に、いつのまにか4200字以上を費やしていることに気がついた。はてな。すいすい話が進んでびっくりしている。

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