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夏至の朝はやくに

4時半から8時まで、近所の喫茶で時間を過ごした。席に腰掛けあくびをひとつこなすと、メニューの書いた板を手渡された。珈琲は4種類あり、コロンビア産(!!)のオールドビーンズをいただくことにした。寝起きの体に珈琲が流れ込み、胃から腸から体が目が醒める事を想像すると、それだけで脳が覚醒しはじめる。そうした妄想を膨らませていると、手挽きのミルで豆が小さくなっていく音が聞こえてくる。豆と金属との隙間にじぶんを滑り込ませるようにして、意識を、音に、ユーカリの香りに、なじませていく。しとしと降り落ちる雨は建物の外からだが、いつのまにか意識は雨粒の内側に移動していた。

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ミルの音が止まり、椅子の上に佇む体に意識が戻ってくる。ハンドドリップで丁寧に入れてくださる珈琲は、待つ時間が楽しい。カップに注がれることを予見させ、現在進行形で生まれてくる音に、香りに、感覚器官が鋭敏になり始める。「ハワイへの旅は、家で身支度する時から始まる」と誰かが口にしたが、珈琲を味わうことは、カップに液体が注がれる随分と前から、はじまっているのだ。


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ミルのひと段落と当時に、足は本棚を求めて立ち上がった。棚の木目に目を奪われたが、すーっと、中原中也の詩集が目に流れ込んできた。そっとあけるとそこには「サーカス」。その詩の存在はいつからか知っていたが、活字としてページの上に置かれたのを見るのは初めてのことである。朧げに記憶されていた「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」の繰り返しを発見すると、嬉しくなる。しかし、前後の文字とともにそれを飲み込むと、色が徐々に抜けていく近所の紫陽花の姿が脳裏に浮かび上がる。


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珈琲が運ばれてきた。八日前に伊豆で見つけた紫陽花を想わせる珈琲カップに、思わず嬉しくなる。そちらに手をかけ、液体を舌先にのせると、楕円形をした角のとれた酸味を感じる。それは優しく泳ぐように舌の真ん中あたりに到着した。すると今度は、粉雪が地面に降り落ちるようにして舌の中に潜る。数ミリ舌を潜ったあたりから、今度は舌全体に果実の甘みが広がっていく。この文章を書いている今でも、舌の前半分をかすかに珈琲が包み込んでいる。味が濃い、や、刺激の強い味だったわけではない。恋人と小指と小指を重ねて道を歩いていくような、そんな風な優しい包み込みかたである。味わいを言葉で表す行為は、味の外側の自己を認識する行為ではなく、味の内側に自己を発見していく営みである。


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気づくと手は、4冊目の本のページをめくっていた。その章には「じぶん自身とデートをしなさい。週に2時間のデートを」と書かれていた。最後にしたデートはいつだろうか。習慣になりつつある朝の海岸のビーチクリーン、ミニシアターで映画を見た後、手作りの料理の盛り付けの時間などがそれに当たるかもしれない。ひとりの時間をデートだとこれまで考えたことがなかったけれど、そういう風に考えたら、ちょっとひとりの時間が変わるかもしれない。じぶんと見て見たい風景、じぶんと食べたいもの、じぶんに読み聞かせたい本、じぶんと包まれてみたい香り、花。それは何だろう。ぼくは私や、僕。俺やあたしと、どんなデートをするだろうか。


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店を出る前に、珈琲を運んできてくれた女性に「玄関先の香りはなんですか。とても好きなんですが、何の香りでしょうか」と尋ねると、答えを教えてくれた。玄関の靴をぬぐところで上を見上げると、そこには小さな棚があり、葉のついたユーカリの枝いくつか置かれていた。鼻を近づけてみるとたしかにこの香りにぼくは惹かれていて「この香り」で、それが女性に伝わった事を驚いた。だって「この香りはなんですか?」と問われて、その香りの在りかを伝えられますか。満天の星空を指差して「あの星の名前を教えて」と言っているようなもの。その場に無数に存在する香源の中から、ぼくがもとめる香りを教えてくれたのは、嬉しいことだった。名前の知らなかったその香りに、新しく「ユーカリ」という、馴染みのある名前を与えられたから。


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ぼくは、色やものなら、ある程度その名前を知っている。つもりで生きているのだが、黄色の香りや固さを知らない。五円玉が百枚集まると五百円玉一枚とおなじの貨幣価値があることを知っているが、コインのそれぞれの材質と製法により生じる香りや味を知らない。他にも、珈琲や親子丼がぼくは好きだが、どんな珈琲や親子丼の香りや味が、じぶんにとってのfavoriteなものかを案外、言葉にできずにいる。歩いているとたくさんの香りに出会うが、それらを嗅ぎわけて好きを知るためには、ある程度言葉でその香りを特定し、じぶんでじぶんに伝えられることが大事だと考えている。


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ぼくにとって「夏至の朝に嗅いだユーカリ」の香りは、いまや、ほかの香りと区分されるようになり、今後出会うであろう様々なユーカリの香りと、今朝の香りを、それぞれ別のfavoriteのものとして大切にすることができるかもしれない。傘を置き忘れたことに気がついたのは、家についてあくびをひとつこなした時だった。



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