中澤系を読む

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  3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって(中澤系)

・だれに向けられた言葉なのか ――聞く人のいないメッセージ

 駅のホームで流れる注意喚起の放送をベースに、この短歌は突如として「理解できない人は」という言葉をノイズのように差し込んでくる。それは無意識のうちに聞き流してしまうシステム的な言葉に強烈な力を与え、だれもが日常的に見聞きしている世界を異質なものへと変換してしまう。

 そもそもこの短歌は「だれ」から「だれ」へと向けられた言葉なのか。もちろん一義的には「理解できない人は下がって」とあるとおり、このメッセージは「理解できない人」に向けられているわけだが、もちろん「理解できない人」は理解できない。だからこそ「理解できない人」なのだ。「理解できない人が理解できないメッセージ」を送るというのは、「伝える」というメッセージ性を否定する自己矛盾を孕んだものだ。ある意味で「なにも言っていない」のと変わらないというようにも取れる。

 ただし、この「理解できない人は下がって」というメッセージは、対偶として「理解できる人は下がらなくてもよい」という意味を孕んでいる。つまり直接的に言葉を向けられた「理解できない人」ではなく、それが漏れ聞こえている「理解できる人」には意味性を持ったものとして響くようにできている……なのだが、しかし、そこで聞こえてくる「理解できる人は下がらなくてもよい」というのは「そのままにしていればいい」ということと同義であり、これもまた意味のあるメッセージではない。自分に向けられたものではないものを漏れ聞きながら、自分には関係ないものとして処理されてしまう類のものだ。乱暴に言ってしまえば、これも「なにも言っていない」のと変わらない。

 つまり、この短歌は取りようによっては「伝えていない」ことを許容しているし、それ自体をひとつのテーマとしている。だれにも伝わらないメッセージを垂れ流しているようなものだ。

 けど、そもそも、その「だれにも伝わらないメッセージ」というのはなんなのか、それを考えてみたい。それこそがこの短歌の本質だと思うからだ。

 そういうわけで、ここで上の句に目を向けてみる。

・3番線快速列車とはなにか ――だれにも伝わらないメッセージ

「3番線快速電車が通過します」――まず言葉どおりに解釈してしまえば、3番線に快速電車が通過します、という注意喚起をおこなっているという、そのままだし、それだけだ。

 少なくともその言葉を言葉どおりに解釈するのならば「ある程度の常識を持つような人間」にならだれにでも理解できるもので、つまり下の句で限定されるのは「ある程度の常識すら持たずに理解できない人」であり、かなり少数の人間と考えてしまってもいいだろう。

 もうひとつ、この解釈で「理解できる人は下がらなくてもよい」との関係を考えてみると、もちろん「理解できる人」であれば言わずもがなで危険性を理解して下がるのだから、あえて「下がる」ことを伝える必要がない、というようにも取れなくはない。取れなくはないが、それではこの「理解しながらも下がらない人」という存在を言外に許容していることの必然性には繋がらない。危険が理由であるのなら、限定などせずに「全員」を下がらせてしまえばいいのだから。

 さて。ここに「ある程度の常識すら持たずに理解できない人」と「理解しながらも下がらない人」という二種類の人物が出てきた。この二種類が、すなわち「3番線快速列車の通過」に巻き込まれる可能性のある人物像である。言ってしまえば、この二種類の人物に関しては「3番線快速列車の通過」に巻き込まれてしまってもよいということをこの短歌はうたっている。

 もういちど上の句の読み解きに戻る。

 3番線快速列車。それをそのままの意味、すなわち実際に存在している列車を指しているとして、下がらない人間に起きることはなにか。もちろん悲惨な事態になりえるだろう未来、ありていに言ってしまえば死だ。すなわち「理解しながらも下がらない人」は、この場合は自殺志願者を指す言葉となる。自殺の望む人間と、死を理解できない人間は、死んでしまっていい、ということをうたっていることになる。

 そうかもしれない、しかし、そうではないような気がする。

 それであるならば、「死にたいやつは飛びこんでこい」と直接にうたってしまえばいいのだ。あえて遠回りに「言外の許容」なんてものをしてやる必要はない。あるいは直接的な表現を嫌ったのかもしれないが、それでも、そもそもからして、それらの行為は許容を必要とするものではないのだから、これもまたメッセージとしての意味をなさないということになる。

 ならば、ここは比喩としてとらえてみよう。

 思想、詩性、システム、神意、恐怖――あるいは、もっと別のもの。このあたりの読み込みについては、他の参加者が多くされるであろうと思われるので割愛してしまうが、おそらくその読みは分かれると思われる。その上で持論を言わせてもらえば、この比喩性としての文脈は「どのようにも読み取れてしまうもの」である。

 乱暴に、結論だけを言ってしまおう。

 この短歌の、この「3番線快速列車」は、さまざまな含意を持ちながらも「完全には理解されないものの象徴」として描かれている。


・だれにも理解されない短歌 ――あなたに向けられたメッセージ

 さて、そうなると、この作品に関していえば「理解できない人」ばかりになる。そこがキモなのだ。つまりこの短歌は「理解できる人」なんてものは存在しない短歌で、「理解しながらも下がらない人」というのは、ただわかった気になっている傲慢なバカでしかない。

 ここまで来ると「理解できない人」の意味合いが、この歌の読み解きを始めたころと変わっていることに気付けていただけたと思う。

 この「理解できない人」というのは、すなわち――「理解した気になっている人」でもなく「理解しようともしなかった人」でもなくて(そんなやつらは3番線快速列車の通過に巻き込まれてしまえ!)

 ――「理解しようとした人」を指す言葉なのだ。

 もっと言ってしまえば、ここまで短歌の解釈を考えてこの文章を読んでいるような「あなた」に向けられたメッセージだと言ってしまってもいい。

 考えて、考えて、たどりつくことのないものを考えて、そうしてきたあなたに、この短歌は「もういいよ」と言っている。理解なんてされないことを前提に、それでも理解しようとした「あなた」に向けて。

 これは、そういう孤独な短歌なのだ。そういう優しい短歌なのだ。そういう素晴らしい短歌なのだ。

   3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって(中澤系)

 以上が歌の読み解き、ここからは感想だ。

 正直に言ってしまえば、ふざけるな、と思う。なにが「下がって」だ。そんな孤独が許されるわけがない、許してたまるものか、とさえ思う。

 理解できない人は下がって、と彼は言う。それは彼の優しさなのかもしれない。

 でも、それでも……だ。

 その孤独を、僕たちは許してはいけない、と思うのだ。

 理解できなくても、理解を放棄してはいけない。「下がって」と言われた程度で、近づくことをやめてはいけない、と思うのだ。

 ひとつの歌への解釈をさまざまに求めて、求め続けて、もっともっと3番線快速列車に近づくべきで、3番線快速列車について考え続けて、やあ、っていつか挨拶することをあきらめてはいけない、と思うのだ。

 そのための、この一歌談欒という企画なのだ、と思うのだ。

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宮本背水

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