『歌集 ベランダでオセロ』を読む

『ベランダでオセロ』を読みました。安直なコピーを付けるなら「新進気鋭の若手歌人による百首競詠」という感じのアンソロジーで、計四百首、非常に読み応えのある作品集でした。以下、一首ずつ歌を引きながら感想をちょろっと。

御殿山みなみ『テン・テン』
十首の連作が十個、また連作ごとに文体をいじっていることから「転々」にも掛けられたタイトルと思います。文体(というか、その元となる意識)の変遷は、おそらく冒頭に提示される平野啓一郎の「分人」の思想を反映したものかと思います(『私とはなにか』を未読なので、想像になりますが)

朝のひかりにゆるされやうとゆるみゆく添乗員の私語ここちよし/『ちよつと良いバス、良い添乗員』

ホップな口語体の歌が多いけれど、この連作は文口混淆体の旧仮名使用。初句七の音の詰まりを続くY音の連続で解消する。夜行バスのなか、朝になって気の緩んだ添乗員の態度を肯定するやさしさと景が融け合うような音の運びがうつくしく感じます。

佐伯紺『本棚』
どこか生きにくさ、息苦しさを感じさせる連作です。怒るよりも先になにかを諦めてしまうような、それでも割り切れなさを残して、微妙な苛立ちを感じさせるようにも見えます。たぶん気づかなければ気づかないでいいところまで気づいてしまうのでしょうね。そういうところが見えてしまうタイプなのでしょう。そうして見えてしまった世界を、それでもどうにか寛容しようとする態度が見え隠れします。

焼き増しをうまく説明できなくて途絶えてしまう火がある あった/『予告編』

結句の句割れに滲む過去形の間に技巧がありますね。そこには事実の認識あるし、悔恨を思わせるし、それが過去形であることをしっかりと認めるまでの躊躇いがみてとれます。「火」というのは単純に読めば「説明する熱意」だけど、その含意はそれだけではないのだろうと広がります。縁語が歌をシームレスにしているように感じました。

橋爪志保『好きな生活』
百日の生活を日記のように記した連作。端書としての散文と、それに対する反歌のような短歌作品。端書の部分が、それ自体が詩であるように描かれていて、読んでいておもしろいです。絶妙に力の抜けている感じの作品が多く、すっと読者の懐へと歩み寄るような造りです。

傘をすぐ失くすひとだと一目見てわかってしまう わかってごめん/『好きな生活』

口語を駆使した力の抜けた文体だけど、なにげなく怖いことを語っている一首。とても偏見に満ちた視線を相手に向けて、それを謝罪しながらも、偏見それ自体は取り消すことはしない。そして、その偏見もある意味でとても正しかったりもするのかもしれません。わかってしまうことは不可避で、文体に反して非常にドラスティックな作品に感じます。

水沼朔太郎『おでこの面積』
なかなか手ごわい群作のように感じます。韻律の緩さや、意識の流れに沿った呟きのようないくつかの作品は、連作の中にも現れる永井祐を思わせますね。うまく言えないのですけど、短歌が詩や歌であることを否定したような作品をあえて作ることで、短歌の詩や歌の部分とそうでない部分をあらためて意識させるような造りになっているように感じました。

ドラマチックにカラスも鳴かない実家への道すがらあるまだ保育園/『1月から3月』

不思議な一首。まず文章について言えば、『まだある』ではなく『ある/まだ』という倒置させている点と、初句の『ドラマチックに』が配置によって『カラスも鳴かない』と『道すがらあるまだ』の両方を修飾しているという、奇妙なねじれを持ち込んでいる。そのねじれのなかに示される『まだ保育園』には、あるいは作者の感動はあるのかもしれないけれど、その感動を読者に共感されることを拒否するような造りになっていて、もしかしたら翻って主体にすら本当は感動なんてものはないのではないかとも思えてくる。その『詩の原点となる感情のようなもの』を排することで、ただそこに捩れた文章が不気味に立っているような感覚にぞわりとします。

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