「歌人のふんどし」感想十首

「歌人のふんどし」、とても楽しかったです。
その中から個人的に気になった作品のいくつかを引きながら感想を書いてみました。

「もう世界終わるね」「そっか」「終点の先をあなたに伝えて逝くね」/逢『終点の先。ちいさな惑星。』(題:郡司和斗)

・誌面でもトップを飾る歌。SFのような不思議な世界観。一首としては、この会話だけを覗き聴いているような、ラジオから漏れ聞こえてしまったような、遠く静かな世界の混線として響きます。連作として読者から触れ得ないところに確立される世界観が静謐で、そこに惹かれます。また「終点の先」に仕掛けられた二首目以降の仕掛けも素敵です。

街は生きる人と同じく生きている身罷れし街と人へ祈りを/あひるだんさー『桃・犬・猿・鳥』(題:小澤ほのか)

・水害を詠んだ連作。先日の岡山の大雨が想起されます。このタイトルからそれを、と思わされた題材。掲出の一首の『身罷れし』が文法的に正しいのか悩んだのはあるんですけど、『街は生きる人と同じく生きている』と言い切った後にくる『身罷れし街と人』という語句、そして祈りが強烈に響きます。六首目の避難生活と童話の読み聞かせという対比にも歌として力強さがあります。

火は灯る 珈琲を淹れるためのものやがて文明のはじまりとして/牛隆佑『星座に名前を付けましょう』(題:岩間龍也)

・一首として引きだすのがもったいないぐらいにきれいなレイアウトになっているので、まずは元の連作の形をご覧いただきたいところ。統一された初句切れに美意識があります。そして掲出の一首、火の生まれた理由として『珈琲を淹れるため』というところが非常に洒脱に感じられますね。また、それを『文明のはじまり』と壮大なスケールにまで引っ張って神話的なイメージに引き込むのが美しいです。

こんにちは こちらはうどんのある世界 うどんの好きな私がいます/九条しょーこ『うどんのない世界』(題:大橋春人)

・『うどんのある世界』を定義することによって、パラレル的にどこかに『うどんのない世界』を思わせることに成功しています。それはSF的に捉えてもいいし、うどんを食べない誰かを念頭においた比喩的な表現として捉えてもいいと思いますが、連作において始終描かれるうどんへの偏執がどこかコミカルに感じられます。うどんのない世界に『私』がいたとして、その『私』は何が好きなものはなんだろうか――ということも考えました。

台風が来ているらしい「見に行く?」と僕ら少年のようにはしゃいで/鈴木智子『台風とともに去るのはぼくだけど』(題:知己凛)

・危険であることを知っているのに、あえてそこに飛びこんでいこうとする。まるで青春のワンシーンのような一首。その無鉄砲な姿勢に、不思議な爽やかさがあります。『少年のように』と比喩があるということは、ここに描かれるのは『少年』ではない『僕ら』なのでしょう。それでも台風が来てテンションがあがる姿には、どこか共感を覚えます。連作のなかで描かれる叙述トリックの内容も妖しくて素敵です。

フィンランドはここから遠くたぶんいま扇風機の向いている方角/田中ましろ『向いてない扇風機』(題:禾口まる)

・フィンランド、という国からカメラが一気にズームアウトするように身近な扇風機がアップに映される構成が(その繋がりの薄さが)楽しくきれいな一首。『たぶん』というどこか投げやりな言葉が効いていて、でも、その風がたしかにフィンランドまで届くかのような幻想が浮かんできて、おもしろい。言葉によって距離を持つムーミンとここがふっと接続される連作。

それよりも今日の下着は黒ですよ)アナウンサーとまた叫んでる/都季『代打逆転サヨナラ満塁黒い下着ホームラン』(題:有無谷六次元)

・野球の試合を真剣に見ている彼氏の横で、野球を知らない主体。あるいは野球はもうまったくもって関係ないのかもしれない。実はあんまり読み解けてなくて、主体と一緒に「わかんない」ってなってたんですけど、特に掲出の一首、妙な勢いがあって、なんだか好きです。

0-0で始める試合 光あれ ひかり、ことばで始める鼓動/とわさき芽ぐみ『ラブ・オール・プレー』(題:逢坂みずき)

・『光あれ』は旧約聖書の創世記の冒頭から、『ことば』は新約聖書のヨハネ福音書の冒頭の『はじめに言葉ありき』からの引用。連作のなかで『シャトル』という単語が使われているので、テニスではなくてバドミントンでしょうか。試合前の緊張感に、聖書の一説を用いた言葉が世界を拡げています。例えば『棒高跳の青年一瞬カインのごとく撓えり 夕映えのなか/永田和宏』という一首もあって、スポーツと聖書は短歌のなかで親和性が高いのかもしれません。

くちびるの赤きほてりは十七の乙女のような祖母の死化粧/木蓮『くちびるの赤きほてりは十七の』(題:笛地静恵)

・上の句にタイトルをそのまま流用しているので、作品としては付句のような形に近いのかもしれません。けれど、そこから導かれた下の句の『乙女のような祖母の死化粧』という言葉のなんと秀逸なことでしょうか。くちびるの赤色から鮮やかに視界が広がり、祖母への挽歌として、とても美しく描かれています。

きりきりと巻かれし螺子のほどかれて間のびして聞くカナリアの歌/桃生苑子『ねじと深呼吸のスパーク』(題:千原こはぎ)

・オルゴールでしょうか。オノマトペを用いた前半の文体の緊張が、下の句で一気に解放されてゆくようです。『カナリアの歌』は「歌を忘れたカナリア」の曲を想像しながら読みました。詩の中で広がってゆくオルゴールの旋律が、ゆっくりと空間に沁みこんでいって、一首に風情を感じさせます。

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