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女は太っていたら許されないの?

木嶋佳苗という人物の名前を憶えている人は、多いのではないだろうか?

柚木麻子さんの小説「Butter」は木嶋をモデルに書かれた話である。木嶋佳苗は交際していた男たちを次々に殺害した容疑で現在服役中である。彼女の事件が世間を驚かせたのは、①交際していた男たちが彼女よりも一回り以上歳上であり、彼らに生活費のすべてを貢がせて、彼女自身は就職もアルバイトもせずに優雅に暮らしていたことと、②容疑者はとてもグルメで、男たちのおカネで贅の限りを尽くした食事をしていたこと、そして③彼女の容姿が、体重70キロ近くあり、顔立ちも美人と呼べるものではなかった、ということである。

柚木さんは特に③の部分に特に注目され、この事件の背景にある日本女性を取り巻くジェンダーの問題に切り込んで、この小説を書かれた。女性がいかに外見によって判断されて、なかでも太っていると、社会から侮蔑の目で眺められるという柚木さんの分析は、なかなか鋭く、読んでいて胸が痛かった。

主人公の雑誌記者、里佳は、容疑者木嶋(小説の中では梶井)に面会に行き、インタビューさせてほしいと申しでる。面会を重ねるうちに、言葉巧みな梶井の話術に引き込まれて、里佳は美食に目覚め梶井と同じように体重を増やしていく。太っていく里佳のことを、デスクの上司や恋人は悪く言うようになっていく。というストーリー展開を通して、太っている女が直面する男からの冷遇を描いていく。

主人公の里佳を太らせていくことで、それまで気づかなかった社会からの偏見が彼女の身に次々と降りかかることで、梶井容疑者が犯罪に手を染めるまでの心境を主人公に追体験させる、というロジックだ。

女が太ると、自己管理能力がないと非難される。男が太ると、妻の面倒見が悪いからだと、妻が非難される。

小説の中で柚木さんはこのように指摘する。生活感のある小説の中で、読者の誰もが一度は身近な人間に対して抱いてしまったことのある感情だ。柚木さんは、女の心の中にも肥満に対するこうしたダブル・スタンダードがあるのだと表現している。

この話は美食と社会偏見を通して、容疑者の心境に迫る話なので、ジェンダー小説であると同時に料理小説でもある。様々な美味しそうな料理が美味しそうな表現で登場し、食欲をそそられる。

しかし、私が感じたのは、登場する料理のどれもがブランド志向であり、味そのものよりも、その皿が高級かどうか、が最も重視されていることだった。なので、和食よりも圧倒的にフランス料理が多く登場し、フランス料理に多く使われるのがbutterなので、この小説のタイトルもそうなっている。

今流行のエスニック料理や、ジビエなどは邪道で貧乏で、ハイクラスな人間は口にするものではない、と言っているようなストーリーに、私は正直、辟易し、そしてバブルの名残を味わった。

実際に、木嶋佳苗はそのような考えの持ち主であり、この小説は彼女の思考パターンを忠実に再現している部分もあるから、木嶋自身がバブリーな人間だったのであろう。

そう考えると、バブルなど歴史の教科書に載るくらいに昔になった今の時代には、木嶋佳苗のような犯罪者はもう現れないのかもしれない。

しかし、日本人の肥満率は男女ともにバブルの頃よりも高くなっている。2000円もあればビュッフェ形式のお店で、誰もがお腹いっぱい食べられる時代に、女だけが痩せ型体型を求められるのは、やはり酷だし、不平等である。

ではいったい、体重何キロまでを肥満と呼ぶのだろうか? 平均体重内であっても、顔が大きかったりすると、実体重よりも太ってみられたり、60キロ以上あっても、筋肉がついているとスタイルが良く見える人もいる。そうなると、太っているか痩せているかの基準は、あくまで男たちの側にあるということではないか?

男からの一方的な視線によって、女たちは自らの体型を整えようとダイエットしたり筋トレに励んだりする、ということなのだろうか? 主体的に生きることが求められている時代に、これでは逆行しているではないか?

そしてさらには、男の目線を内在化した女たちが、幻想の男目線に見つめられるようにして日々ダイエットに励み、メジャーでウェストのサイズを毎朝測るのだ。

柚木さんは、女が好きな物を好きなだけ食べることを、最後まで肯定した。

物語では、主人公の里佳が食を通じて、親友との友情をさらに深め、取材の仕事に協力してくれた仲間たちとの連帯を強めていく。そしてラストシーンでは一戸建ての家を買い、そこに仲間たちを招待して、獄中の梶井容疑者に面会の際に教えてもらったレシピの料理を振る舞い、ホームパーティーをするという、いわば女の理想の自立の物語となっている。友情も食もキャリアも家も手にした、成功した女の姿である。

そんなふうにして、小説は素晴らしい大団円で幕を閉じるのだが、私はなんだかしっくりこなかった。あまりにも理想的にまとまり過ぎたエンディングだったから、ではない。本を閉じた後、私たちが帰っていく現実世界は、あまりにも難しいから、である。世の中は小説のようにできてはいない。食べることと、太ることについて、私たち女は、明日も思い悩み、男の目を気にしながら生きていくのだろうと思うと、この小説が残した明るい読後感に胸焼けするのだ。

木嶋佳苗のようにバブルに思考が染められた犯罪者が、今後の日本に現れないとしても、女たちが食と節制のせめぎ合いの中で生きる時代が終わったわけではない。だから私は女の理想を実現させる小説よりも、女を取り巻くこんな時代を根底から覆す、なにかパラレルな時代軸が存在していたらどうなるだろうか、というような思考実験的な小説が読みたい。思考実験はいわば頭のエクササイズ。そんなエクササイズが、女たちを少しずつ自由にし、男たちに違った景色を見せるのだろう、と思うからだ。

体よりも前に、頭のエクササイズをしてみよう。

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