高級パンと難民キャンプと殺人と

食パンが流行っているらしい。

一斤1000円とか2000円するような高級な食パンだ。先日たまたま恵比寿でその店を見つけた。買ってみると、食パンなのにケーキみたいな香りがして、口当たりはまろやかなのに、歯ごたえはしっかりしている。

でも食パンって、と思った。何の飾り気もなく、ただ四角く焼いただけの食パンなのだ。でも店には行列ができていた。お客さんたちは店のロゴが小さくプリントされた黒い紙袋にパンを入れてもらい、喜んで帰っていく。紙袋もはっきり言って地味だ。中にそんな高級なパンが入っているようには想像できなかった。

もしかしたら、シンプルな物がいちばん人を幸せにすることに気づいた人が、こんなパンを作ろうと思い立ったのかもしれない。店のオーナーはきっと、原点を大切にする人なんだろうなと、想像してみたりした。

その食パンに出会った日は、ちょっと憂鬱な一日だった。

友人に誕生日を祝ってもらい、ガレット屋さんで食事をした。そのガレット屋さんは、私たちがファンであるお笑い芸人の村本大輔さんがよく行く店で、ジャーナリストの堀潤さんもよく来る。店長さんに村本さんと堀さんの話をすると、楽しそうに笑ってくれて、店が混んでいたにもかかわらず、何度も私たちのテーブルに来てくれて話が盛りあがった。

そば粉のガレットは変わらず美味しかった。焼き方が絶妙で、生地が適度な硬さを保ちながら、そば粉の風味が立っていた。食事を終えると、そのまま友人と2人で堀潤さんの写真展に向かった。シリア人難民キャンプの光景を映した写真展が、その日から一週間限定で開かれる初日だったのだ。

難民キャンプは広大で、世田谷区の4倍の面積があるという。キャンプの中はちょっとした日用品を売る商店が開かれ、バスも通っている。キャンプの学校は支援金の削減によって教材が滞ったりするから、教育の質を保つのが大変だ。

NPOスタッフとして難民キャンプで働く日本人女性が、支援金が足りないことや、子供たちに充分なケアをしてあげられないことなどを、映像の中で語っていた。シリアは治安が悪いけれど、色々と考えた結果、キャンプを出て母国シリアに家族で帰国することになった女の子についてフォーカスされていた。服装は貧しいけれど、どこか強い意志が窺える表情をした女の子の顔が映像でアップになった。キャンプを去って行ったその女の子のことを思い出しながら、日本人スタッフは「他人の気持ちが分かる大人になってほしい」と語り、涙を流していた。

他人の気持ちが分かる大人になってほしい。そのフレーズが頭の中で木霊した。

日本では、最近、嫌なニュースが連日流れていた。引きこもりだった男が川崎の登戸でバス待ちの小学生を襲って17人も刺した。後で知ったことだが、その川崎の犯人は、私と同じ中学校を出ていた。年齢が離れているからクラスメートではないけれど、人生の一時期でも、あの犯人も私と同じ校舎に通い、同じ教室で授業を受けていたことがあったと思うと、いたたまれない気持ちになった。

聞けば、犯人は小学校の頃に両親が離婚したが、両親ともが彼を引き取らなかったという。叔父と叔母が彼を引き取ることになり、2人の従妹と一緒にずっと「よそ者」として育ってきたという。一緒に暮らしていた従妹たちは、事件で狙われたカリタス小学校から中学校、そして高校へと進んだが、彼だけは高校にも進学させてもらえなかったという。

中学の先輩に久しぶりに連絡を取ってみると、彼女は犯人のことを覚えていた。彼は当時から学校で「孤児」とからかわれて、苛められていたという。庇ってくれる人は誰もいなかったのだろうか?

あの事件をきっかけに、私も自分の中学時代を振り返るきっかけを得た。当時のクラスメートの男子で、お母さんが病気で亡くなってしまった子がいた。誰かのお母さんが死ぬという出来事自体が、その頃の私にとっては人生で初めての経験だったので、強いショックを受けた。あの子はこれからどうなるんだろう……あの子のお父さんや兄弟はどうなるんだろう……と当時の私はそのことばかり考えていた。
そのクラスメートの男子はお母さんが亡くなった日から、左の頬だけが曲がったような顔になってしまった。

そんな折に、担任の先生が放った言葉が今でも忘れられない。○○君のお母さんのお葬式に行って来ましたと言って、喪服姿で教室に帰ってきた先生は、教壇の前でため息をつきながら「親で良かったわよ」と言ったのだ。

「子供が死ぬとね、イジメじゃないかとか、自殺じゃないかとか疑われて色々と厄介だけど、今回は親だったから良かったわよ」

私は耳を疑った。でも疑いようがなく、先生ははっきりとそう言ったのだ。今でも当時の担任の先生のことは軽蔑している。あんな人が教師だなんて、世も末だと当時の私は憤ったが、そんな末の世の中が今でも続いているのだ。

そんな学校だったから、あの犯人も救いようがない日々を送っていたのではないかと想像する。他人の状況を思いやる気持ちの一片もない人々に囲まれて中学時代を過ごしたせいで、あんな凶行を犯す人間になってしまったのかもしれない。

他人の気持ちが分かる大人になってほしい。

難民キャンプの子供たちに向けて言われた言葉が、頭の中でぐるぐる回っていた。

ならば私は他人の気持ちが分かる人間なのかと自分に問いかけると、頷くことはできないなと思う。写真展を出たその足で、高級食パンの店に並んでしまった。たった今、支援金で運営する貧しい学校や、キャンプを出てシリアに帰る子供の映像を見てきたばかりなのに、無意識に食パンを買ってしまえる自分は何なのだろう、とがっかりする。

他人の気持ちが分かる大人になってほしい。

そう、これは私にとっても永遠の課題なのだ。

口の中で食パンの生地がゆっくりほぐれていくのを感じながら、何がいちばん難しいことなのか、分かったような気がした。シンプルなことが、いちばん難しいのだ。自分ではない他人の気持ちを理解しようとすること。それは私の日常においてよく遭遇する状況でありながら、とても難しい。もしも他人の気持ちが分かるようになれたら、きっと世の中はもっと生きやすくなるのだろう。そして生きやすい世の中にすることが、きっとこの社会の原点なのかもしれない。

そんなことを考えていた一日だった。

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