近代日本舞踊史 関東大震災から戦前まで Ⅰ

第三節 新舞踊の隆盛


大正12年(1923)関東大震災によって江戸時代以来の建物の多くが灰燼に帰した。これによって東京はモダンな帝都へと変貌を遂げていくこととなる。そして、舞踊もこれと無関係でいることは不可能であった。有楽座や帝国劇場も甚大な被害を受け、以後、公演の場として帝国ホテルの演芸場がその重要性を増してゆくのである。

一、藤蔭会と勝本清一郎

静枝の病に加え、関東大震災と立て続けに予期せぬアクシデントに見舞われた藤蔭会だったが、震災の直後に早くも第十三回と第十四回を開催している。このころから勝本清一郎が同人として加入した。

勝本は慶應義塾の学生で三田文学にも参加、舞踊にも造詣が深く批評も多く残している。二人は静枝が病床に伏せていたころに出会い、恋人となった。勝本は藤蔭会の中心人物となり、東洋風の神秘的な作品を多く生み出してゆく。


大正13年(1924)帝国ホテルの演芸場で開かれた第十五回藤蔭会は童謡舞踊がその中心を占めており、それらは好評であった。

さて、この回の目玉であった「蛇身厭離」であるが、その主題は自らの蛇性によって愛人を死なせた女が、遂にその蛇性から離脱していくというもの。勝本が演出と構成を担当した壮大なスケールの意欲作であった。だが、それゆえ多くの箇所で歪みが目立った。少し長くなるが、小林宗吉と福地信世の「二人批評」がそれを端的に物語っているので引用する。

小林―それから「蛇身厭離」ですがこれは一同の最も苦心の出物のやうに見受けますが私は最も首肯出来ないものだと思ひました。私は筋書の舞踊構想も注意深く読んで見ましたがどうも感心ができません。私は第一におききしたいのは少年能師の袴をつけたあの扮装(それから侍女も)とあの洋楽と何処に調和があるのでせうか。(中略)
それから侍女があの扮装であの西洋舞踊式な踊りは無理だと思ひます。見てゐて気の毒になりました。私の考へでは、あの侍女に蛇身を表現させる為めには扮装にも背景にももっと他の考案が必要だと思ひます。(中略)それから照明も感心しません。もう少し蛇の狂おしい色調が欲しいと思ひます。音楽はミロオの作曲までは行かずとも少し怪奇な感が欲しいと思ひました。私達にはあの音楽は何だか甘い歯の浮くやうな所がありました。デリカシーばかりが音楽ではないと思ひます。全体に新しい船頭ばかり多くて船を山に上げたやうな気がします。
福地―懺悔をしませう。衣裳は勝本誠一郎氏考案のものと静枝女史好みのものと二様新調しまして舞台稽古に両方用ゐて見ました。舞台装置も二様飾って見ました。こんな風でしたから、研究は熱心にやりましたが、練りが足りませんで、船を山に上げましたらう。
(『新演芸』大正13年7月号「二人批評」)


これが「外から見た問題点」であった。もう一つの「内に秘めた問題」。それは演奏席に関するものである。勝本は舞踊の視覚的な面を重要視し、どうしても邪魔になってしまう演奏席を裏へと追いやってしまった。このことは演出側と音楽スタッフとの深刻な対立を招き、音楽自体の質を大きく低下させるという事態を招いた。


批判と対立を抱えながら、翌年の第十六回藤蔭会では鬼子母神をテーマとする大作「訶梨帝母」を世に放つ。どれほどの困難に遭おうともそれに屈することなく前衛であり続けた静枝とスタッフの心意気は見事と言うほかない。ちなみにこの時上演された「紅薔薇」は岡田嘉子が出演。新劇のホープで映画スターとして注目を浴びつつあった嘉子の出演は話題となった。


大正15年(1926)は静枝が大陸に巡業へ行っていたため藤蔭会は開催されず。翌昭和2年(1927)に第十七回藤蔭会が開かれる。この回では洋楽の新作が三つあり、野心的な回であった。その新作とは、「地下に埋もれた過去の浪漫的な世界に、現実界からの光線を当て、相互に反射させて見た」という何とも難解な「ヒドランゲア・オタクサ」東洋の幻想を描いた「幻術師ヤーヤ」インドの伝説に題材をとる「芥子粒夫人(ポストマニ)」である。もはや題名だけを見て日本舞踊の作品と分かる者はおるまい。


このように次々と新作を上演していった静枝だったが、同時に自分の舞踊に限界も感じ始め、鬱屈とした思いも募っていた。また、第十七回藤蔭会後に勝本と破局。こうして一区切りつけようと思った静枝は昭和3年(1928)単身パリへと旅立つ。第十八回藤蔭会は静枝の送別舞踊会であった。

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