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人は家賃が払えなくなるとPOPなラブソングをつくりだすし、エルフは男性性に虐められるで「可愛く」なる

あいさつ

ダンジョン飯がおもしろい

昔漫画1巻読んだことがあって話の記憶薄れたところにありましたが、アニメみて「あ、そうそう。そんな話やった」と軽く思い出していました。

エルフの女の子が可愛いです。でもなんでエルフの女の子かわいんだろうとも思いました。「男性性的な世界観の中で彼女を痛めつけてる」ことを「可愛い」と思っているからなんですね。つまりこの「可愛さ」はある種の残虐性であると思いました。

逆に、残虐性が純粋な「可愛さ」に洗浄されながら昇華されているのでもあります。つまり残虐性が「かわいい」という名のもとで合法になってます。表層にあらわれる「かわいい」の操作主は残虐性であるということで、この感情は「自分の支配下におきたい」というよくある話です。「かわいい」の程度とはこの「残虐さ」の露出程度に依存します。

魔物っていう汚いもの食うし、そもそもダンジョンという男の子が好きな世界の中に純粋な女性を強要させるし、彼女には魔物に襲われたりしていろいろ苦しい目にあってもらおうという「残虐性」に晒すことで彼女は「かわいい」対象になります。エルフ女性が魔物に襲われるときに、すぐに助けずに勇者は傍観することも一つのいじめであり「かわいいなあ」と眺める瞬間です。

斉藤環先生の「戦闘美少女」の表象文化論みたいな話で、性的対象(かわいい女の子)に男性性(敵と戦う)を持たせることが、視聴者のなにか欠落した感情を補ってくれるようなものです。

「いやよ、いやよ」といいながらも、魔物を食うという汚い世界(男性的世界に)を「ダンジョン飯美味しい!」と言って喜びを覚えるわけですが、こういうのがまるで「純粋な女の子が犯されることで性の喜び(男根に貫通される悦び、破壊される悦び)を覚える」という構図に近いというわけなんですね。「性のヨロコビをしりやがっておじさん」もハラハラする現場であり、精神分析に関心のある人が文化表象の批評したときに「思春期童貞すぎ笑」と言われる瞬間でもあります。

「男性は自分よりも能力が高い女性といると、自分の尊厳をDVという暴力で証明する」みたいなツイートが鋭い指摘だと思います。バリキャリもバリキャリで「自分で稼げるようになるとまじで男性の存在の不要さを感じ、いるのは精子だけ」になるという感覚もおもしろいなというわけです。

男性は「ダンジョン飯」のようにかわいい女の子が男性性の中で苦しむ姿を見ることで自分の権力を確認でき女の子が「かわいく」みえる一方で、じゃあその女性がダンジョンの中で男性性中心の世界の中で無双し始めると自身の男根機能の不能さ(自分よりも収入が多い女性)に不安を感じ始めるわけです。

それますが、上野千鶴子さんは「なぜ男性と同化することが女性の社会進出なのか」という批判も大事なポイントでしょう。

男性性の世界の中で女性を苦しめることが社会コミュニケーション能力の低い動物が喜ぶコンテンツだとしたら、「逆のコンテンツあったらおもろいんじゃないか?」と思いましたが、それは「誰得コンテンツなんですね」。

社会コミュニケーション能力低い男性を、女社会という共感能力の高度知的生命体の中に放りこんでも「こいつ役に立たないゴミじゃん」となるんですよね。男性自身が商品(対象、モノ化)になることは難しい。ジャニーズはそれに成功したんだけど。

そもそも「かわいい」とは肉体を傷つけることで生み出されるのです。中世のコルセットは肉体を圧迫させて内臓や神経に圧迫させるかなり危ないのですね。貴婦人が当時顔が白いのは血流がわるいからです。しんどくてもしんどい顔を見せてはなりません。肉体を痛めつけるコルセットを女性自らのぞんでいるのです。

人間の体に穴を開けるピアス、タトゥーなども元は奴隷につかわれていたみたいな話があります。鷲田清一さんの本にありました。商品となりみんなから承認されるので、自ら痛めつけることを望みます。歩きにくく、体に負担をかけるハイヒールが社会的に期待されているのです。女性は特に対象になる歴史があり、烙印を入れることを自ら望むこともあります。対象化(モノ化)であることを男性から期待され、また自ら期待する内在化もあるわけです。その既存の価値観からの脱出が女性権利団体、フェミニズムです。鈴木涼美さん、峰なゆかさんなどの本読む方が話がはやいです。

エルフの女の子が「かわいく」みえるのは、男性性の烙印によって女性が痛めつけられることと、その女の子自身の受容を見ることで自らの残虐したい、支配下におきたい、所有したいという感情が補われるからなんですね。

人間の欲望は「食欲、睡眠欲、性欲」ですが、もう一つ「破壊欲」付け足した方がいろいろコミュニケーションを取る上で便利だと思います。「残虐なことをしたい」という欲望をフラットに捉えた方が暗黙下にあることよりもいろいろ便利なのかもしれない。

本題

POPな女の子の恋の歌をつくりまりた。ロックなんだけど。
人は家賃が払えなくなるとポップスを作り出すという奇妙な現象に出くわしました。意味わからなすぎておもろいなと。家賃が払えないという確実に迫りくる、ある種の「死」の恐怖を通り過ぎると、説明し難い真空状態に辿り着くというオモロ現象。

脱成長論の本の帯に書いているのが「これから人は絵を描いたり歌をうたったりする芸術を楽しむ時代が来るだろう」とかベーシックインカム論者が「もう生きるために働く必要はない。これからは遊ぶ時代だ」とゆーてますが、

僕の場合まだきてないユートピアの中でベーシックインカム論者の生き方してます
どうも下部構造ガン無視ニキです

三島由紀夫は少年〜青年時代、日本が戦争に負けることは世界の終わりだと思っていたそうです。しかし負けても夏の美しい風景はなにも変わらず家族は楽しそうに白い椅子に座り談笑していて、ここに三島は「感動を通り越した空白」をみつけたそうです。僕は今「家賃不払いを通り越した空白」を感じているわけです。「俺昔家賃払えなさすぎて、POPラブソング作ってた」っていえるフレーズができました。楽しみです。ちなみにヘッダーの画像は下の曲です。

最近しったボカロの曲ですがすごいですね。
「ヤババイナ」「ばごーーーーん!!!」「混沌ブギ」よくききます。
批評はできないんだけど、単純な感動としてすごいです。じゃあもし僕が「音楽一本で食っていくか!」と決めたとして上の動画出した後にこれらの作品見るとアップロードした先ほどの曲が最後の引退曲になります。

これらの曲かなりのアップテンポで批判する人は「アテンションエコノミーの過剰性」というのかなと思ったりします、すげえ知らないけど。ファスト教養、映画を早送りで見る人、リール動画の構造上2秒で注目を引かせる消費の過剰性、あたりの話いうのかな、すげー知らないですけど。

「混沌ブギ」のオーディオコメンタリー拝見しましたがおもしろかったです。ネット界隈で流行っている「unwelcome school」をやりたいということで作られたそうです。歌詞に「完全体の山田〜3000体の桑田」というスッゲー関係のないフレーズがあってご本人も「なんでこれにしたのかわからない笑」とおしゃっていました。

ただその後に「だけども、これに代替できる歌詞が見つからなかった。これ以外にハマるものがなかった。」とおっしゃっていて、天才とはこういうことだと思いました。

と同時に、こういうときに必要になってくるのが批評家の仕事なんだなと思います。「作っていて本人もわからない現象ってあるんだ」って思いましたし、曲作りにあたって自分もその感覚の触り目を感じました。ユングとかの全体の無意識とかそういう道具が活躍するんだなと思いました。早く読まないとですね。本人もわからない状態の診断を批評家がするのだなと改めて思いました。

作詞をするというのは健康に良いと思いました。こういう形でのアウトプットすることで、日常の中での言葉の接し方が変わる感じがしました。本に書いてある文字の吸収の仕方も変わるなと思いました。「これ歌詞でつかえないかな?」というアンテナがあるとひとつひとつの言葉に立ち止まって考える感じがしますし「もっとインプットしなきゃいけない」といういい動機になります。米津玄師も三島由紀夫読んでるそうなんですね。

あと作詞していて思ったことが「技能労働としての作詞」の可能性を感じました。つまり才能は別にいらなくて誰でも「良い詩」はある程度書けるという可能性です。
作詞するときに「まったく違う脳をつかっている感じ」がありそこを鍛えるとある程度の「作詞脳」ができると思います。再現可能性がある。
僕の一つ人生の主題があって「宇宙の隔たり、魔術を解く」という作業です。説明できないことを我々は「天才」とか「神」とか「あの人は違うから〜」というまるで自分が住む宇宙と違うような世界観を持ちます。
でもこれ本読んで言語力鍛えると説明できるのである程度の「魔術、超越性」を解体することができます。言い換えると「あんま世界に絶望することがない」ということです。実際に自分が幼い作詞をしてみてそれで宮沢賢治の詩集に手を出したのなら、それは良いことではないでしょうか。

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