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キョロ充を卒業できない人に決定的に足りないモノ

「借りの哲学」を紹介

なぜキョロ充を卒業したい人はこの本を読むべきなのか

キョロ充が圧倒的に人間関係に恵まれないのは、「人間関係に損得勘定を持ち運んでいる」から。自分が傷つくこと、損することばかり考えているから、人同士の絆は深まらない。人気者ほど「持ちつ持たれつ」の規模が大きい。

要約
「等価交換」の価値観じゃなくて、「贈与交換」の価値観で生きよう。「損得勘定」の精神じゃなくて「困ったときは助け合い」の精神こそが本当に必要なのである。

「等価交換」が人間をロボットにさせる

「等価交換」とは「お金」のことです。
お金と商品を交換することを「等価交換」といいます。今の社会はこの「等価交換」で出来上がっています。

「等価交換」には反対の言葉があります。

それが「贈与交換」です。これが今回の記事のキーワードです。

「贈与交換」とは「愛情をこめて物をあげる」という行為です。例えばプレゼントで花をあげたり、ご飯を奢ることも一つの贈与行為とされます。

「等価交換」と「贈与交換」の二つの言葉が出てきましたね。

歴史的な流れから見ると、「贈与交換なんて嫌だよ!等価交換にすればみんな幸せになれるよ!」と贈与交換が否定されて等価交換が主流になったのですね。

現代の贈与交換といえば、プレゼントするというささやかな程度や主に家族からの愛だけです。しかし贈与交換が主流になっていた昔の人々が社会が一つとなって贈与交換をしていたのです。

社会が一つとなって贈与交換をする、というのはとても大変だったのです。

例えば、みんながみんなにプレゼントをしました、しかし一人だけプレゼントのお返しをしなかったとします。するとみんなは白い目でその人を見るようになります。「みんな分け与えているのに、こいつはケチなやつだ」と。そうなるとプレゼントを返せなかった人は、社会から冷たい目で見られます。昔の社会では社会基盤も発達していないし、豊かなモノに恵まれていないので、白い目で見られた人は本当に生活が苦しくなります。

贈与交換が主流の昔の暮らしで、一番恐ろしいものは「返しきれない負い目」です。例えばあなたが食べ物に困り飢え死にしそうになります。その時食料を与える人が現れますです。貴族達です。あなたはその人に「飢え死にから生き返らせた」ことと同等の恩返しをできるのでしょうか?「はいじゃあこれ飢え死にから救ってくれたお礼の土地と権力ね!じゃあ私とあなたの関係はこれで平等!ばいばい!」となるのはとても難しいですよね。貧しい人たちはその贈与にたいして返しきれません。「返しきれない負い目」が生じると人間は、その人に服従するしか無いのです。「返しきれない負い目」を返す方法はただ一つ、永遠に奴隷になることです。

だから昔の人は「贈与交換」なんてこりごりだ!!何かみんなが幸せになる交換システムはないのか!と叫びました。

ニーチェは最大の債権者はキリストであると言っています。キリスト教では、人は生まれながらに罪を背負っている、という考え方があります。しかしその罪をキリストが肩代わりしてくれるのです。ここに信者達に「負い目」が生じます。つまりこれはキリストが「お前らの罪は俺が肩代わりしてやってんだから、ちゃんと恩返ししろよ?」と「返しきれない負い目」を信者に押し付けているのです。こうして信者はキリストの奴隷になるのです。すごい話ですよねこれ。

贈与交換の不満から生まれたのが等価交換です

全ての価値を「お金」という価値でまとめることで、お互いの関係は綺麗さっぱりすることができます。

「お金」さえあれば知らない人とでも交換が行うことができます。そして交換した後は綺麗さっぱりお別れです。なんと素晴らしい機能でしょう。お金さえあれば欲しい時に欲しい分だけ交換すればいいから、「負い目」なんて背負わなくていいのです。

昔の時みたいに「返しきれない負い目」なんて背負う必要はないのですから。相手が贈与をしてきてます断れることができるようになったのですから。

こうして「等価交換」が普通になりました。

しかし人間は「等価交換」のおかげで幸せになったのでしょうか?

以前のような「奴隷」からは免れたものの、人間は寂しくなりました。関係がさっぱりしてしまったから、もはやマンションの隣に誰が住んでるのかもわからなくなりました。裕福だけど人と繋がれていない。

実は人間は「贈与交換」なしに生きることはできないのです。今でも人間は「私たちの関係は本当だよね?」と確認したくなります。今でも人間はご飯を奢り奢られる関係を通して絆を深めていきます。今でも人間は愛する人にはプレゼントを与えて気持ちを証明します。

等価交換でさっぱりになった世界でも、人間は生まれてこのかた「贈与交換」を必要としているのです。2000年以上生きてきた人間の本質には「贈与」があります。

「助け合い」の人間をめざせ

田舎だと地域のつながりはとても強いですよね。あればコミュニティが贈与交換で強くなっているからです。お互いが食材に困ったら交換しあったり、常にご高齢の人たちの状態をみんなが知っているのです。だから贈与交換で出来上がったコミュニティは災害がきても、みんなが助け合い二次三次災害を防ぐことができました(このような人間関係助け合いの密度を社会資本と言います)。一方都市では人々の繋がりが弱すぎたために二次災害や三次災害(人による窃盗、レイプ)が多く出現しました。

人間は独りで生きていくことは不可能です。必ず助け合いが必要になります。助け合いの中に「負い目」というものが生じますが、その「負い目」がひどくない限りは背負ってもいいのでは?と筆者は述べています。

親からの負い目は社会に返せばいい。と彼は言ってます。もちろん贈与関係の社会では「返しきれない負い目」や「プライバシーの侵害」などが問題として出てきます。しかし法体制やセキュリティが整っている現代こそその問題に向き合って行けばいいとも言っています。

人間は「人の間」に生きる動物で、本質的に贈与交換は必要です。たくさん生きるために
贈与していきましょう。

この本では新しい価値観が得られます。この本がきっかけで私はこのような形で知識を贈与することを始めました。これを読んだ方が幸せになってくれれば、それが私への恩返しです。



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