04/19/##

あの時の私へ。
あの時間の、私へ。
昨日と、今日が何にも変わらないと思っていたあの日の私はただ愚かである

何事もなく好きなものを食べ、何事もなくすきなコンテンツを見て
何事も起こらないかのように人に腹を立て、何事も起こらないかのようにただ笑い、何事も起こらないかのようにひたすら時間を過ごした
無様で滑稽な私へ。

人は過去を美化したがるし、人は、過去を改ざんしたがる。
愚かである事実を認めること、無力な自分を自覚すること、
臆病な自分を肯定すること、
これを行うことで、自分を知った気になっては、また稚拙な言葉を書き綴り
何事もなかったかのような顔をして、靴に足を沈める。


昨日とおとといのことを考えてみたが、笑ってしまうほどに何も示していないことに気が付いた。「示す」というのは何かの手本になるわけでも、見せつけるものでもなく、ただ自分の人生を辞書として引いたとき、ただひたすらに引用する欄が存在しないという意味である。インターネットという社会に、我々は今日も生息している。
意味もなく、中身もない空っぽの容器を満たしているかのように、ひたすら欲求を注ぎ続ける。つい最近、私の好きだったアーティストが亡くなったが、絶望や喪失感を感じたことに偽りはなかった。しかし、それをSNSの住民に共有したとたん、自分の感情や思い出や宝物は意図も無残に消え去ってしまった。
自分の住んでいる国で、自然災害が起こった。被害は膨大で国や組織は募金活動や支援活動を必死に行った。
というのをスマートフォンの薄っぺらな画面から確認したし、募金をしたことをSNSで共有した。
お金持ちに少数住民が群がり「被災地に募金をしてあげてください」と渾身の正義を振りまいた。
僕はこれらすべてを薄い液晶画面の中から確認し、胸の中につかえる重く黒い感情と向き合っていた。
善である悪であるなどの内容をそもそも議論などしないし、言及もしないがただ、ひたすらこの得体のしれない気持ちの悪さと、居心地の悪さ、自分の中の境界線に触られた感覚にひどく吐気を催した。
世間で「子ども」と定義される時代に僕は何でも許せた。
誰かに何かを求めることはあっても誰かが行った何かをジャッジすることはなかった。「軸」という名の「琴線」が何層にも出来上がり、それからそれは一本の太い柱となった。
その柱の琴線に他者の「善」が触れたとき、僕の「悪」が掻き立てられるのだ。
自分は世間で何物でもなく、自分にとっても何の意味もなさないのに、自分が長く聴きなれた大好きだった音楽とともにそれを涙とともに流そうとした。
花を手向けて、故人の足元に咲き誇るのだろうか。といつも考える。
まさかそんなはずはないし、花は一週間もすれば枯れ果て、その色彩はいとも簡単に色あせる。
そう考えてみると我々は「偽善」や「欺瞞」というレールの上をただひたすらに疑問をもって歩き続けている。たまに不安になるから、限りなく自分自身に近いものを持ち合わせた人間と手を取り合い、細いレールの上をひたすら歩き進める。
対向から進み来る別の住民の道を譲ろうという気もなく、ひたすらに前だけを向き突き進んでいく。
それを、人々は「正義」と呼ぶ。


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