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お茶から学ぶ日本の歴史

歴史は苦手意識が拭えない。が、大好きな「茶の湯」をきっかけとしてなら、楽しく学び、克服できそうだ。


以下「茶の湯の楽しみ」より抜粋

村田珠光 

能阿弥に書院茶を学んだ村田珠光 は、当時庶民のあいだに伝わっていた地味で簡素な「地下茶の湯」の様式を取り入れ,さらに大徳寺の一休宗純から学んだ禅の精神を加味して,精神的・芸術的内容をもつ茶道を作ります。

なお、珠光の生涯や彼の佗び茶の性格に関する同時代の記録はほとんどなく、千利休の弟子である山上宗二が著した茶の湯の秘伝書『山上宗二記』によるところが大きいのですが、『山上宗二記』に「珠光の云われしは、藁屋に名馬を繋ぎたるがよしと也。然れば則ち、麁相なる座敷に名物置きたるが好し。」とあるとおり、わびたるものと名品との対比の中に思いがけない美を見出すところに珠光のわび茶の様子がみられます。

武野紹鴎

珠光が他界したあと、武野紹鴎がわび茶を完成させることになります。 応仁の乱で京都が荒廃し、戦乱を避けた人々は自由都市堺の地へと集まっていきました。紹鴎も上洛し歌道を研究するかたわら村田珠光の流れを継ぐ茶人について茶の湯を学んでいましたが、31歳のとき堺に帰り、剃髪して紹鴎を号し茶の湯に専念します。


最近、とある会に参加することで、『南方録』をパラパラ読み始めたばかりだが、『山上宗二記』は未だ目を通したことがない。

また、南方録も後世の作なので、この『山上宗二記』がリアルタイムで、利休の”侘び茶”の精神をもっとも忠実に伝えたものといえる。「珠光一紙目録」など所収の記事内容は、他の歴史資料と突き合わせても、誤記・矛盾がほとんどなく、史料としても第一級の価値を誇る代表的な茶書です。第一稿を訳了し、胸が痛んだのは、おびただしい数の茶の名品が、信長本能寺の変にて灰燼と帰したこと。茶の湯の開祖、村田珠光が目利きし、歴代将軍が精魂こめて収集した”東山御物”など、当時の国宝級名品のほぼ8~9割がこの一瞬に失われてしまったのです。

出典:言の葉庵

『山上宗二記』、面白そうだが、この山上宗二も秀吉に切腹させられるのか。利休だけではない。武士だろうが、町人だろうが、茶人と言われる人物で、秀吉に切腹を命じられたのは一体何人いるのだろう。古田織部、山上宗二、他にもいるのか。。


令和元年六月三日(2019.06.03)

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