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5月28日 未来会議のトークイベント「MIRAI TALK NIGHT ~MIRAI BAR~」

2016年5月28日土曜日は未来会議のトークイベント「MIRAI TALK NIGHT ~MIRAI BAR~」に参加してきた。
今回の第五回はひろしま避難者の会「アスチカ」代表 三浦綾さんがゲスト。今回は聞き手として三浦さんに話をうかがった。
その時のメモ(あまりまとまっていません!): #ミライバー


三浦綾さん
ひろしま避難者の会「アスチカ」代表
http://hiroshimahinanshanokai-asuchika.com/

チャイルドケア トータルサポートサービス 「Wendy いわき・ひろしま」代表
http://www.to-ho-net.co.jp/wendy/

今は広島といわき市を行き来しながらそれぞれの運営をしている。自宅はいわき市平。出身は難しいですね。生まれは横浜、両親は広島。父が海外の間は2年位広島。その後は九州。多感な時期は九州。友達は九州の人が多い。結婚前は東京の銀行に勤務していた。社員旅行はスパリゾート・ハワイアンズ。当時付き合っていた、今の夫の出身がいわきだった。東京の人だと思っていた。
結婚を機にいわき市に住み、20年が経つ。
嫁いできて最初は大変だった。銀行員さんの感覚が違っていた。スタイルが違っていた。なかなか馴染めなかった。土地勘がなく何度も道に迷った。家になかなか帰れなかった。


チャイルドケアトータルサポート「Wendy いわき」

チャイルドケアトータルサポート「Wendy いわき」を10年前に立ち上げた(2016年8月で10年目をむかえる)。お母さんに笑顔で子育てをしてもらえるいわきになるように、出かけた先に子供を預けられる場所があるようにという思い出立ち上げた。3番目の子供が10ヶ月の時に一人で立ち上げた。自分は3人の子供がいる。3番めの子供は上の子から8歳次の子から6歳はなれていた。自由な時間の中に生まれた乳飲み子。また制限のある生活。3番目ので子育てには余裕があったので習い事をしようとしたが、子連れであることを理由に習い事が出来なかった。お母さんってダメなんだな。。と感じだ。リフレッシュする時間は作ってもらえないんだなと思った。「くりーむそぉだ」という子供の見守り付きの教室を自分で企画した。自分が習いたい教室を企画して楽しんだ。月に1回、ハンドメイド教室や料理教室を企画して行っていた。
一年経つと子供連れの参加者が増えてやり方を変えることにした。呼びかけをして、みまもりスタッフが加わった。現在のスタッフ数は20人くらい。口コミで広がった震災後は大きいイベントは出来なくなったが、今現在も「Wendy いわき」は運営している。

父親の死

震災前に父が亡くなった。すい臓がん末期。あと3ヶ月と言われていた。広島にお見舞いで通うようになった。交通費がかかるので移動用に車を購入した。父は2年半がんばってくれて2010年の7月に亡くなった。亡くなるまでの間40回くらい広島に行った。
ひとり残された母のことを考える。母を一人にしたくない。主人の理解を得られなかったら離婚して広島で生活しようかなと一人で考えていた。ちょうど、2011年は上の娘が中学生になる歳だったので、4月に広島に行こうかと考えていた。
3月11日に東日本大震災が起こった。

震災直後の行動

住んでいる場所は断水。近所の消防署の脇の平体育館は避難所になっていたが、自宅は新築の上、避難所には沢山の人が集まっていたので避難所のお世話にならなかった。ガソリンスタンドのガソリンもなく、コンビニやスーパーの商品も不足していた。そんな時に東京の友人に誘われて東京へ避難した。子どもに温かいものを食べさせたかった。震災後2日以上経っていたのでお風呂にも入れてあげたかった。
あの時のいわき市は普通じゃなかった。娘の友人のお父さんの会社は社員が避難できる状態ではなかった。私たちは東京に行く際にその方の男のお子さん2人を預かって東京に送り届けた。その時、送り出したお父さんは泣いていた。あの時のことを思い出してください。あの状況でどんな選択が正しいかなんて誰も分からなかった。迂回しながら12時間くらいかけて東京まで行った。途中のコンビニで水が出て、子どもが感動していた。周りの目が気になり少し恥ずかしかったがそれくらい水に触れていなかった。5年たった今でも、子どもたちが当時のことをふと思い出したりすることがある。

東京に避難したあと

主人はとにかく物資をいわき市に届けたい。私は子どもたちと東京に待機。主人が物資を運んだ時、いわき市の一部の地域は屋内退避になっていた。いわき市の街なかも人がほとんどいない状態になっていた。主人と私はいわきの会社を立て直さなければならないので、子ども3人を飛行機で私の母がいる広島に送り出した。11歳だった子どもを12歳ということにして、残りの子どもの保護者として飛行機に搭乗させた。頼れるのは広島母しかいなかった。子どもは初めておばあちゃんとの暮らしに戸惑っていたようだ。
私はいわきに戻って会社の仕事をした。2011年8月までは3週間いわき、1週間広島の生活をした。バス移動のため疲れが抜けなかったので新幹線を使うようにした。主人に東京まで迎えに来てもらうなどできるだけ節約した。

震災後のWendyいわき

「Wendyいわき」の活動も止まっていた。3月20日に仲間と連絡を取り合った。いわき市の水道が復旧し学校が再開するようになったため副代表と2人で5月に活動を再開した。再開当時はお子さんの一時預かりをしようと思ったが、全く託児の依頼がなかった。その当時のお母さんは子どもと離れたくない。地震の時の経験からか。集まれる場所を作ろうということになった。その当時はいわき市内にたくさん避難所があった。子どもと離れられないお母さんが集まれる場所として自宅を開放した。今までイベント会場としていた公民館などの場所はすべて避難所になっていた。そのために自宅を開放した。避難所で暮らしているお母さん達がうちを利用して集まって話をしたりしていた。

震災後の家業である会社

主人曰く「会社が1番、社員が2番、社員の家族が3番」震災があってその意味がよくわかった。会社を開いていると社員がカップ麺持って出社してくる、家族の大黒柱、母子家庭の事務の子もいた。ライフラインの復旧もまだだったので、3月16日に会社を一旦閉じることにした。ガソリンも手に入りにくい状況。そんな中でもOA機器販売をやっているためにコピー用紙の配達依頼などが医療機関からくる。そんな状況で一人社員が業務の対応をしてくれた。彼の奥さんは看護師さんなのでいわきから出ないということだった。配達などを対応してくれた。とても感謝している。

広島へ子供の様子を見に行く

会社を閉じている間に広島へ避難させた子どもに会いに行った。いわきナンバーの車で広島の母の家についたら、町内会長さんが話しかけてきた。避難してきた人がいたら支援したいという心づもりでいてくれたらしい。年度末で子どもたちの転校のことで困っていたら、町内会長さんが全て手配してくれた。21日には中学校、小学校、幼稚園、そして制服がすぐに揃った。あの時は死ぬかもしれないと思っていた。あの時死ぬと思いませんでしたか?あの後また爆発したら死ぬかもしれないと思っていたので、子どもを抱えていて、周りの人が避難で家がない状況だったり、いろいろなことを考える中で子供だけは助かって欲しいと思っていた。そんな思いで転校先の校長先生にお願いして、主人と3月26日からいわきで仕事をした。
長かったあの時期が。その後はあまり憶えていない。その後、毎月いわきと広島を行き来している。

現在はなぜ広島県の方に多くの時間滞在しているのか?

順調だった。私はいわき市では毎日深夜まで仕事をしていたので、子どもを預けていることは正直助かっていた。学校から電話があった。中学に行った娘が「気が付くと外を見て泣いている」という話だった。学校は泣いているときは早退させたりしていた。成績は良かった。保健室と学校と学校に行くと泣いている。そして生きている。主人と相談をして広島にいる時間を長くすることにした。娘が心配だった。予定通りには行かない。
「避難している人が誰にも認めてもらえてないと感じている。」震災当時を思い起こせば、避難しても留まっても、どちらの選択も正しいと思う。

広島に長く滞在するようになって

ひろしま避難者の会「アスチカ」を立ち上げた。アスチカは生活基盤を整えて震災前の自分に近づくためのサポートをする会。116世帯346人が会員として登録いる。アスチカは任意団体。入会金などもない。無料でネットワークに入っていただいている会員さんのファイルを全部持っているので、個人の希望がない限り破棄できない。福島県庁や広島県庁とも相談しながらサポートをしている団体。

ひろしま避難者の会「アスチカ」を作った経緯

経緯は2011年5月に広島で被災者交流会が広島市社協とボランティア本部でやってくださっていた。毎月やってくださったんだと思う。せめてこの交流会だけは子どもと同じ世代の子に会わせたくて、この交流会に合わせて広島に行くようにしていた。そしてwendyもやっていたのですぐ手伝いをしたくなった。世話人として一緒に開催するお手伝い役をやらせてもらった。11月に交流会が終わることになった。
年が明けて2012年1月に交流会が終わったことの振り返り会に参加。20人位の広島のボランティアの人と世話人は私だけだった。2011年12月に福島県からの自主避難向けの住宅支援を出すことを発表したところで、これから福島県から避難者が来るタイミング。私は作りたいとは言ってなかったが、たまたまその時期に振り返り会でこの話題になって、ボランティアの人から「三浦さんがやるなら応援する」という申し入れがあったので「やろうか」という気持ちになった。その帰り道、被災者交流会の時に唯一メール交換した人に連絡をとって一緒に運営することをお願いした。その人が現在のアスチカ副代表。それがキッカケで何ができるかを考えた。あの当時、震災に伴う避難で広島に来ている人たちの個人情報は社協が全部持っていた。目の前にいるのにデータは見せてもらえなかった。どうやって行くか考えている時に社協の所長さんが「毎月避難者に手紙を出しているよ」と独り言のように言った。「そこに入れなさい」とは言わない。「ああそうか」とそこに交流会のご案内と、住所と家族構成と不安なことを記入するアンケートをつけて、とにかく避難者さんの情報を集めようと動いた。それがネットワークだった。会を始めるつもりはなかった。その結果、交流会には来ないけどネットワークには参加する人や、交流会に参加する人、不安なことについてのアンケートがどんどん集まった。2012年9月までで80世帯が集まった。
また社協の所長さんが「いつまで相談を集めていくつもりなの?集めるだけでいつ不安は解消されるの?」と言われた。あそうかと思い『ひろしま避難者の会「アスチカ」』を設立した。

アスチカという団体

間違って頂きたくないのは、「アスチカ」は反原発だったり、デモをする団体ではないということ。いっさい署名もしません。ここは東日本大震災というものをきっかけに、広島に移住をした人たちや、一時でも避難をしようと思った人たちの心を落ち着かせたいという会なので。「悩みを一個ずつ解決させていかないといけない」という気持ちがキッカケで「アスチカ」を10月に設立した。「避難者の会を立ち上げて戦うぞ」とかそういったものではない。自分の目の前に起こった問題を解決しようとやってきた結果が「アスチカ」になった。

アスチカの参加会員について

岩手、宮城、福島、関東圏からの避難者身寄りをなくして親戚が広島にいたので移り住んできた人や生活の基盤をなくした人、健康を心配して避難してきた人など事情は様々。

津波による避難・単身女性のケース

津波で家を流されて震災後も連絡がつかなかった。広島の息子さんが探しに行くと、彼女の仕事場が避難所になっていて、食事の提供などの支援を続けていた。家は流されていた。その後広島から探しに来た息子さんと出会い広島に移り住んだ。意志で広島に来たわけではない。行く場所がなかった。

他のケース

お子さんが広島県に住んでいたのでそれを頼って近くに移り住んだ方。中には帰還困難区域が住まいだった人もいる。宮城県で津波被害に遭われた方。妊娠中で被災地ではがんばれないと思って出産のために実家のある広島に戻った人。いろんな背景を持った人がいる。
関東からの避難者も多くいる。支援があるとかそういうことではなく避難を決断した人たち。関東からの避難者の方々はすごく気をつけて生活している。すごく勉強されている。
ほんと色んな事情の方が避難しているが、東日本大震災の時にみんな同じように被災されている。ただ単に「その際に住む場所を広島に決定した人たち」と思っていただけたらいいと思います。帰れない場所の人もいるので一概には言えないが、誰も行動を制限されているわけではないと思う。

自分の立ち位置

私は避難者でもあり支援者でもあるので、両方の意見を聞くことが多い。中間にいる存在。ただ、私は誰も肯定も否定しない。だれの話も聞こうと心がけています。「アスチカ」はそういう中立性が求められる難しい会。説明が難しいです。
いわきでWendy、広島でアスチカを運営。主人の理解がなければ出来なかった。いわき市内もいわき市民だけではない。あの時同じ経験をされて、いわきに住むのを望んだわけでなく来てしまった人達もいる。
県内避難者も県外避難者も変わらないと思うんです。
私はよく「避難してるんですよね」と声をかけられるが難しいですよね、こんなに毎月福島県に帰っていて、いわきの子育て支援もして、広島でアスチカ運営して、福島県庁に行きながら、宮城県庁とも仕事して、、なんか東北行きすぎなんですよね(笑)。だから「避難してるんですよね」と言われると矛盾を感じます。「出たから避難者」って言うんですか?何をしているかとか気づいていただきたいなとか思います。でも私は多分いちいち説明したことがない。私はずっと言われ続けてきたので、もう腹も立たない。でも一番つらいのは受け身だけの県外避難者の方たち。私みたいにいろいろ動いているような事をしていない避難者の方々が悶々とされている。すごく難しい。特にこういう話を福島県内で話すのは2回目なので。

避難してきた身寄りの無い人を看取った話

震災の時に末期がんを患った方がいた。震災に伴う避難で転院を余儀なくされて広島に移ってきた。夫婦で広島に移り住んで来たが看病をしていた旦那さんが先に亡くなってしまった。広島のタクシー運転手さんが知らせてくれた。「なんで助けてあげないのか?」と言われた。この電話を受けるまでこの方達が広島に移り住んでいたことを知らなかった。社協はもちろん把握していたがアスチカには知らせてもらえなかった。会いに行った時、残された奥さんは酷い人間不信に陥っていた。どんな声をかけても怒鳴られた。寝たきりだった奥さんはご主人が亡くなったために起き上がり一人でご主人の葬儀をあげていた。私以外の人とほとんど話さなかった。私が福島の人間とわかってからは福島の話を聞きたがっていた。2年前に奥さんは亡くなられたが引き取り手がなく、社協さんと一緒にお線香を上げた。母でもないんですが、そうやって亡くなっていく方もいました。

いろいろな事情の避難者

本当は戻りたい気持ちがあっても戻るお金がないので広島にとどまっている人もいる。
決めた人も迷っている人もいる。子供の進路、生活、決定できる要素がない。進学の話で言えば「支援切れますから来年4月からは福島の学校へはいどうぞ」では子供の人生の選択を尊重してあげられない。子どもたちが納得出来ない。高校受験でを難しい学校へ入学できた子がいたりするとやっぱり簡単に動けない。
多分こういった会(MIRAI BAR)に出てこられる方には分からないかもしれない。外に出てこれて話を聞ける人はまだほんとにがんばれている人だと思います。なんとか出てこない人たちを助けたいと思うんですが、個人情報保護という壁があってなかなか分からないという中ではとにかく「アスチカ」を通じて「声を上げていない人を掘り起こす」とういう思いしか無い。「アスチカ」があったのに助けられなかったと新聞記事に出たことがある。

会員と一緒に過ごす取り組みと、
コミュニティスペースたねまく広場

「アスチカ」では共有スペース「コミュニティスペースたねまく広場」を設けた。震災3年後にオープン。公共交通機関が集まる場所に作った。阪神淡路大震災でボランティアを経験した人から「3年後からだよ。3年経ってから自殺する人が増える」と言われたのがオープンのきっかけ。いつでも行って話ができる場所。「行きます」と言ってからもなかなか共有スペースにやってこない会員の人がいる。でもここはいつでも開いているので突然来たりすることが出来る。このスペースの運営はすべてアスチカ会員と広島の方で運営している。「コミュニティスペースたねまく広場」は避難者のために作ったスペースではない。どなたにでも利用していただけるスペース。
去年から宮城県民の避難者の方の拠点になっている。去年は宮城県からの避難者の中国・四国地方のエリア。今年から宮城県からの避難者の沖縄県までをカバーしている。今年は沖縄で交流会をやることになっている。もうひとつ福島県からの依頼があって、山口県と島根県と広島県3県をアスチカが担当する。福島県から避難者の方の拠点。25箇所あるうちの一つ。

今後の話

アスチカは会員が0になったら、避難した人たちが落ち着かれたら解散するつもりで設立しました。会員も定住するかどうかという自由な選択の中で生きていかなければならない。「避難者」という表現を無くして行けるようにサポートする。東日本大震災を経験したという意味では今日聞きに来ている皆さんと一緒だと思う。「県外に避難した人」っていうのを無くしていただくまでにはあと3年はお手伝いしていかなければならないかなと思っています。今後、住宅支援が打ち切られることを皆さんが経験する。準備できる人も準備できない人もいる。切れてからの支援が大切なので、その時にアスチカが助けられるように。切れてから1、2年県庁と連携して定住でも帰還でも支援したい。生活や就職、戻るなら戻るための支援などあと3年以上アスチカは残る。自身で乗り越えるための支援をしていく。
「なんでもう大丈夫なのに帰ってこないの?」と疑問を持たれる方も多いと思う。よくFacebookなどで泣き言を多く書いているのを見かける。ごく一部の方の発言だと思うがそれを見てしまうと、遠くに住んでいると大丈夫と思えなくなってしまう。県外避難者には福島県が大丈夫という情報が届きにくいと感じています。もちろん情報も必要だけどそういう「大丈夫」という発言が戻るきっかけになると思います。いわき市のWendyは頼りになる副代表もしますし、主人もいてくれています。今後アスチカは広島の方に受け継いで欲しいと話している。広島の支援活動をする方にこの交流スペースを運営して欲しい。今は熊本大地震の支援もあるし、南海トラフ地震も起こるかもしれない。そういうことを含めて災害の時の支援の拠点として残ったらいいと思います。アスチカの会員の方がモヤモヤしている状態のままでアスチカが解散にならないように残していきたいです。


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