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4月9日 未来会議のトークイベント「MIRAI TALK NIGHT ~MIRAI BAR~」

4月9日土曜日は未来会議のトークイベント「MIRAI TALK NIGHT ~MIRAI BAR~」に参加してきた。 #‎ミライバー
今回の第四回は福島県富岡町出身 株式会社観陽亭 代表取締役遠藤義之さんがゲスト。
その時のメモ(あまりまとまっていません!):
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遠藤義之さん
福島県富岡町出身
株式会社観陽亭 代表取締役

今日は富岡町の集い(富岡町の復興への集い2016)に参加してきた。
夜の森の桜を見に今年一度も行っていなかった。700人。集まる途中に夜の森を通って広野の体育館でイベントをした。(富岡町の復興への集い2016)
ジジババたち。若い人はいなかった。育ててくれた人と握手、ハグ、いいイベントだった。久々。

26歳の時に富岡町へ今年で44歳になる。
富岡町生まれ双葉高校卒。広告作りたい専門学校。東京の広告代理店5年。
父が大工、屋根から落ちて急遽もどってきた。富岡に戻ってくるつもりはなかった。
もめてたので戻らざるをえなかった。
仕事も決まってなかった。12月に辞表。1月は有給あつかいでそのまま地元に戻る。
街の広報誌を書く職員募集。
株式会社富岡町振興公社
三セク
その後サービス業へ
街の施設を委託で管理する。
いわきゆったり館のような施設
健康増進施設
温泉ホテルトレーニングルーム複合施設の
開設準備室で働いた。

震災前の仕事

震災直前は富岡町の観陽亭で働いていた。平成20年オープン
結婚式場の跡地
海抜15メートル
オーシャンビュー
当時別なホテルのマネージャーをしていた。
観陽亭は潰れそうになってた。
回り回って観陽亭の支配人になった。サラリーマン
21年の4月から着任。
人を呼び込む苦労あまりしてない。
目の前には富岡川。日の出。月の出。漁港を見下ろす。素晴らしいロケーション。
営業に出られる状況ではなかった。内情がメタメタ。
スタッフはいない。
とにかく来たお客さんを満足させることに注力した。
1ヶ月の20日くらいホテルに停まっていた。
厨房やってフロントやって。人を雇える状況ではなかった。
一歩も下がることができない状況。2年間頑張ってきた。
まさにこれから!さあこれから!23年2月に社員旅行をやった。
その後3.11がきてしまった。

地震と津波

海抜15メートル。津波でやられた。
今日のイベント(富岡町の復興への集い2016)でも富岡町民でもこの事実を知らない人がいる。
3月11日はチェックインの準備。かなり埋まっていた。
スタッフが少ない時間。町内に打ち合わせに行ってる時に地震。
揺れが収まってから
小学校に電話した、みんな体育館に避難。現時点で大丈夫。
観陽亭に戻る。防災無線。避難警報がガンガン流れる。スタッフは6.7人くらい。館内被害あったがみな無事。みんな帰らせた。家族の確認。社長に報告。館内の写真を取りまくっていた。
外に出たら
富岡川が増水。富岡港水かさがどんどん上がっていく様子を見ていた。
沿岸部に向かって津波警報のアナウンス
船が陸へ流されていく様。
濁流が家々を飲み込んでいく。
その後、逆流していく。
消防団の人「津波が来るから逃げろ」高台に上がる。
車に乗って娘と息子を連れて 観陽亭に戻ると 観陽亭が津波でやられていた。港も見る影もない。
ギリギリで助かっている。
妻は楢葉町で働いていた。夜中まで連絡がつかなかった。
次の日の朝避難命令出るまで原発危ないと思わなかった。
子供を不安にさせないためにラジオはつけていなかった。
深夜に妻とは出会えた。
川内村に避難。一族20人位で移動。弟の嫁が妊婦。子供も小さい。
川内村はいっぱいという知らせがあったので、郡山市に先に向かった。開成山球場に避難。13日の夕方まで。群馬伊勢崎の親戚が迎えに来た。14日の朝には伊勢崎に避難した。4号線を南下。福島県を出ると携帯かつなかった。あさ伊勢崎市役所へ行って、当時の伊勢崎市は「計画停電の問い合わせ」がすごかったようだった。群馬県庁へ電話をして避難者の受け入れを要請した。
当時いわき市四倉町の菅波病院におばが入院。
伊勢崎から四倉へおばの元へ。おばを連れて伊勢崎へ。15日の午後には伊勢崎市の団地へ親戚の避難完了した。自分たち家族は16日の夜に嫁の実家(東京都)へ避難した。

震災後に起業したきっかけ

3月末に観陽亭事業部解雇。解散。
これまでお客様の縁で嫁の実家(東京都)へ救援物資4トンあつまる。
富岡町健康増進センターのバス静岡から呼び寄せて、後輩集めて物資積んで郡山へ。
町会議員も乗せてビッグパレットへ。
救援物資を運び込み。
1週間住み込み支援。
家族に戻る。
その後1週間スタッフの避難先をまわる。
配給まちの時に思った。
生き残ったのに、生かされているだけな感じがした。家畜のように感じた。惨め。情けない。
動かなければならないということが自立のきっかけ。
当たり前のこと(物資配り)をしているだけなのに、スタッフの家族が喜ぶ。見ていて辛い。逃げなのかもしれない。何かしなくては。
スタッフを呼び戻したい。
前の社長が物件を見つけてくれた。
たくさんの人から電話。なんでもいいから食い物をという要望があった。
弁当事業を始めた。
よく借り入れできたと思っている。23年の9月。宅配専門のお弁当会社を立ち上げた。
会社立ち上げまでの期間は復興関連の仕事をとにかくやった。ほとんど詐欺のようなこと。業者として働いた。
400円 36食からのスタート。
観陽亭の名前を引き継ぐ。
2年間全てをなげうって捧げてきた。中途半端に終わってしまった。社長は浪江町請戸の人。会社は大熊町。厳しい状況。その人の夢の続きをしたい。
町民に育ててもらった。恩返し。
いわきにスタッフを呼び寄せる。住宅事情も大変だった。
当初5人、
今は40人。双葉郡10人。いわき市30人。
会社は沼の内。地元の人は津波の被害者。自分は避難者。全員震災で生き残ったものの集まり。ともに生きる場が 観陽亭。共に生きる場作り。
会社も良くする自分も成長する。富岡にも何かをしたい。Jビレッジにお弁当。23年の初期の頃から富岡町へタイベックを着て弁当を届けていた。
町民が知らぬ間に物事が進んでいく事がやりきれなかった。現地視察を企画したりもした。
いまの観陽亭はいわき市が拠点。自宅は帰還困難地区なのでいわき市で自立をして、いわきからどのように富岡に繋いでいけるのかが課題。
状況によっても違いがあるので、もがいていく。
富岡町も状況が様々。もどる?戻らない? 
当時建てた家は賠償でローンを返した。妻の実家(東京都)の裏に家を買った。拠点は東京。単身でいわき市。
離れていてもどのように故郷と関わっていくのか。家族とどうすれば幸せに暮らせるのか。一緒に暮らせない。
道を模索したい。刻々と状況が変わる。ベストな判断ができる自分になりたい。
 
根岸(聞き手):
解除について。帰還困難区域はまだ。解除になった途端「もどるか、戻らないか」突きつけられる。

とにかく自分の育った故郷であるのは間違いない。離れることはできない。会社を継いだり守る立場では無い分。自由度は高い。帰還困難区域の疎外感も感じる時がある。なので違う事をやっていく。いわき市の企業グループにも関わっているので、逆輸入的に関われるかも。自分を高めていく。会社もいわきを拠点に広げていく。頼られる自分になりたいい。必要とされるものになりたい。そうなった時に富岡町に必要とされるものになりたい。
「ともに生きていく。色々背負い込んでいる。」
61歳のスタッフがガンでなくなった。家族。。助け合い。どうやって人の役に立てるかしかない。
「自分の思う必要とされる人の要素」
相手のせいにしない。自分を変えることによって相手が変わると思っている。
いろんなことを考えさせられた。一人ひとりの捉え方。生きているなあと感じた。どうだったのか?
これからもめいいっぱい生きたい。生き延びたものの勝手な使命感。人とつながっていくことが自己変革に繋がると思って、色んな人とつながっていく。


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