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大切にしているものはちっぽけなものーー日々の尊厳

私は4年前、58歳にしてフォルケホイスコーレに留学し、およそ100名の学生とともに10ヶ月を過ごしてきた。(後半の2ヶ月半はコロナロックダウンで国際留学生の数名だけだったが)
もちろん若い方々とは参加の目的も動機も、そして体力・気力・経験値など様々異なる条件での留学だったわけで、目的の中心「高齢者の尊厳ある日常生活とは」についてこうして帰国後も悩みながら考えている。恐ろしいのはすでに60歳を超えて衰えてゆく自分を見ながらそれを考えなければならない時期に来ているということだ。かなり切迫したものがある。
これまでに「尊厳ある」ということは自分も、対する相手も努力してそれぞれの自己決定、自発的行動、結果の如何に関わらずそれを受け取る姿勢を尊重してなお、脆弱な部分(例えば介護が必要なこと)には共感的にサポートすることであると書いてきた。その努力をするための必要条件として居心地の良い対話の場があり、その中でお互いが大切にしているものを侵さないようにコミュニケーションを作ってゆくということだった。
ここに何気なく「大切にしているもの」というのが出てくるが、この言葉は「尊厳」という言葉と同じように、厳かでそれなりの納得感を自分に持たせてくれるような「何か」というニュアンスをまとっていると私は感じている。だから「あなたの大切にしているものはなんですか?」と聞かれたとすると「家族とともに過ごす時間」とか、「好きな音楽を聴く時間」とか。いやそのとおりである。そのとおりではあるのだが、実のところ、大切にしているものはもっともっと具体的でちっぽけなものである。たとえば家族みな寝起きの不機嫌な顔でテレビだけが喋っている無言で10分の朝食タイムかもしれない。たとえば疲れた体で職場から帰宅する電車の中で周囲に気を使って音量小さめでイヤホンで聴く90年代のバラードかもしれない。しかし自分は大抵の場合その答えとして「おごそかで納得感のあるもの」をどうしても探してしまう。だから自分の大切にしているものがぼんやりとしてなかなかはっきりとしないのだ。
考えてみると、いくら抽象的なおごそかな言葉をならべて表現したとしても人生の中の「それ」はあくまで具体例である。具体例で人生は積み上がってゆく。1+1=2というのは抽象化が人生の具体例に役立つというひとつの技術であって、人生の中では1個のキャベツと1本のネギを合わせても1個のキャベツと1本のネギである。
私はデンマークに滞在していた最後の方で、介助・介護専門職の方と話をする機会を得たが、その時孤独な高齢者の心を開くには、という話題になりその時彼女がふと「あなたが誰なのかを教えてください」と言ったことを覚えている。それは抽象的な「あなた」ではなく、具体例を積み重ねてきた「あなた」をそのまま教えてくださいということだった。もちろんそれが「私の大切にしているもの」を話すということであり、それがそのまま受け止めてもらえるという体験になることであった。ここに来て初めて私は自分の大切にしているものを言葉にできそうだと思ったのだった。

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