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自分を観察する習慣

デンマークのフォルケホイスコーレでは、とにかく時間があった。あったと言っても暇だったわけではない。むしろ、全く聞き取れないデンマーク語の生活の中で、(学生として)生き残るために、次はどうすれば良いか、そのことばかり考えていたように思う。それこそ「暇さえあれば」自分のすべきことを相当の緊張感を持って考え行動していた。
だが決して時間に追われていたわけではない。ゆとりがあった。6時に起床、洗顔と洗濯物をたたみ、アイロンをかけ、今日の授業に必要なものを確認し、ついでにラジオ体操、そしてはるか昔NHKラジオの基礎英語で覚えた、平叙文→yes\no疑問文→返答→wh疑問文→返答のエクササイズを適当なデンマーク語の文を10個選んで声出し、そして8:15に朝食へ出かけると言った具合だ。夜も10時にはリビングから引き上げてきてシャワー、翌日の行動計画、今日の復習、日記をつけて0時には就寝できた。翌日に疲れを残した記憶はない。
ところで、旅の計画を立てるのは楽しいものだ。自分のしたいことを洗い出し、自分の状態に応じて行動を決めてゆく。そしてもちろん何らかの出会いがそこに待っている。人かもしれないし、物かもしれない。未知の自分との出会いかもしれない。それがとても楽しみなのだ。デンマークの毎日はまさにこのような旅行計画を立て続けていたといえる。
だから、退屈などという言葉とは全く反対の場所にいた。もしそれがあったとしたら、風邪を引いて床に伏せっていた時だろうか。しかしその時でもどうやって最短でこの風邪を治せるだろうかと、常に自分の体調を観察しながら考えていた。
この、常に自分を観察する習慣というものを日本ではあまりしていなかった。もちろん日本であっても風邪をひけば体温を測り、症状をチェックして必要なら医者にかかり、薬も飲む。別に変わらないじゃないかとも見えるが、実は一つ違いがある。責任の所在である。日本では医者や薬が風邪を治してくれる、そういうふうに捉えていた。だから、自分を観察するのは、医者や薬に自分の状態を伝えるためだ。責任は医者や薬にあるので、そこに間違いのないように観察していた。そこには何か盲目的な信頼を抱いている。しかしデンマークでは信頼関係が当然ながらどこにもなかった。デンマーク人の医者にかかったり、向こうの薬を飲めば治るのだろうか。言葉もあまり通じないし。というわけで自分の力だけで治さねばならないということになる。つまりここで自分を観察する責任が他人から自分へと移ったのである。
自分の責任で自分を観察することは、日本では困難なように感じる。周りからたくさんの手が差し伸べられていて何でも解決してくれるような感覚に陥っているからだ。むしろ自分に責任を負わせてくれない。その違いに気づきながらこの大切な習慣を守ろうとしている。

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