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信用する、と 信頼する

「信用する」と「信頼する」は似ているようだが異なる、とはよく言われることだ。その意味の違いについてはネットでいくらでも調べることができる。信用は「信じて用いる」、信頼は「信じて頼る」という読み方をすると言葉のニュアンスがよくわかるという記事があったがなるほどと思う。日本はなんとなく信用を重んじて、デンマークは信用と信頼をかなりはっきりと分けて使っている、そのように感じる。
私が3年前にデンマークに留学した際に興味の一つにあったのは国民相互の信頼関係、国民と政治との信頼関係についてであった。一つの例で言えば、スーパーの入り口のところに赤ちゃんをベビーカーに乗せたまま置いておいても大丈夫というのだ。本当かなと思っていたが、年末に町の公園近くにある教会の事務所を訪れたことがあった。クリスマス週間に慈善事業として孤独な老人たちと一緒にボランティア活動があるのではないかと尋ねに行ったのだ。その時事務所には先客が来ていたようだったが、なんと建物の入り口に赤ちゃんの入ったベビーカーがあったのだ。もちろん教会の事務所ということでもあったのだろうが、なるほど一つの事実を見たと思った。
国民と政治との信頼関係ということではどうだったか。これは留学も後半に入った3月のことだったが、新型コロナで国がロックダウンした際のことである。日本では検疫の方法や感染対策についてかなりの批判的な意見が出され、政府がその中で引っ張るような形に見えていたのだが、もちろんデンマークでも相当な意見のやり取りがあったはずだが、政府と議会、与野党が一丸となって対策を打ち出しているように見えた。言葉にするのは難しいのだが、否定して存在感を出すのではなく、肯定して協力して存在感を出しているように見えたのだ。国民の方は、当初は多少の買いだめに走る動きがあったようだが、スーパーの前には「十分な在庫があるので買いだめの必要はありません」という看板が出されたり、感染防止(三密防止)のために海岸の簡易埠頭の板がサッと外されていたのにも、町の中は静かに応じていたようだ。
そして、信頼関係の表れと思えた印象的なことは、フォルケホイスコーレの学生たちが協働して大臣宛に学校再開の時期を早めるように嘆願書を出したことだ。義務教育であるフォルケスコーレや保育園は一般の職場と同様に比較的早めにロックダウンが解除されたが、フォルケホイスコーレだけは先延ばしになっていたのである。これは全国から学生が移動してくることが主な理由だったと思うが、それに対して猛然と(そのように私には見えた)抗議の声を上げたことはとても印象的だった。日本ではマスコミがそう言った声を拾い上げて世論を作ることが普通だと感じていたし、直接大臣に抗議するということは全く頭になかったので驚いたものだった。
信頼するとはお互い様、どちらも相手を頼りにすることだ。国民が政治を頼り、政治は国民を頼る。そのために議論して結論を出してゆく。逆に言えば、議論できる範囲が信頼関係であるとも言える。心情や主義など議論できないところはプライバシーとして信頼関係の外にあるようだ。一方信用とは使えること、自分の判断でそれを用いるわけだから一方通行だ。人間的な関係というよりは仕組み・機械的な関係だ。これを使い分けるということがどのようなことかをデンマークが教えてくれたように思う。

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