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難しい問題

世の中には難しい問題が溢れかえっている。私もやたらと「難しいですね。」を連発してきた。対話や議論が得意でないと、このようなことになってしまう。しかし「難しい」という言葉を問題にかぶせてしまうと、それは思考を止める効果がある。それ以上話の持って行きようがなくなってしまうのだ。それを知っているのでなおさら使ってしまうこともある。

よく、究極の選択問題と言われるものに、たとえば医者のあなたのところに瀕死の若者と瀕死の高齢者が運ばれてきて、時間と薬は一人分しかない。どちらを助けるか?というのがある。これは現在架空の話ではないところが深刻なのであるが、誰も立ち会いたくないこんな状況に立ち会わされている人は、それぞれの考えでこの難問を乗り越えて進まなければならない。逃げられないのだ。その苦悩は大きいなんてものではないだろう。

デンマークのフォルケホイスコーレでは、混乱した状況下での行動戦略のようなことに授業で触れたことがあった。目の前で暴力事件が起きた場合、大災害が起きた場合、そして国内で紛争が起きて巻き込まれた場合など、ドキュメンタリー映画を見せたりして考えさせる。正解はない。だが、一人ひとりは必ず行動する。どんなにその思考から逃げていてもその場にいたら必ず行動する。それを強制的に考えさせるという少しショッキングな授業だった。

難しいといって思考を止めるのは簡単で楽な選択だ。しかしその先を考えたところで、そこに意味を見出せないでいたようにも思う。案ずるより生むが易し。その時にならなければわからないということだ。しかし時間をかけてそのような状況を考える、デンマークはその時間を与えてくれたわけだが、それは自分が何を大切にするのかということを考えることでもあった。そのことに気づかせてくれた。考えて結論が出たわけではないが、そのような意味に気がついたということだ。この「意味」というのは、人生に意味を付ける「意味」だ。そしてそのために自分が行動を決めて行くベースになるものだ。だから何度でも考えなければならない。考えて考えて、そこに何かの輪郭が浮かんできたら、それがまた一つ人生を厚くしてくれるような気がしている。

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