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三年遅れで就活始めました

同級生より3年遅れで就職活動を始めた。

大学を2年半休学していたので、25歳新卒社員が爆誕することになる。
一浪して大学院に行って就職する人と同じ年齢だと思えば全然大したことないか。
今まで何度か就活をしようとしたことがあり、その度に挫折していたけれど、最近ようやく就職することに前向きな気持ちを持つことができている。

大学を休学して約2年半、山梨で自給自足に近い生活をしてきた。

最初の2年は、地域おこし協力隊として自然体験塾で働いていた。鶏を育て、薪で風呂を沸かし、畑を耕し、古民家の改修をしながら暮らしたり、地元の出店者さんを呼んでマルシェを企画したりもした。独立してからは、森を買って開拓したり、整体師としてゆるくデビューしたり、山荘を貸し切って音楽イベントを開催したり、出会いにも環境にも恵まれ、毎日がとても充実していた。

一方で、20歳前後までの自分の人生を無視しているという感覚があった。私はなんのために勉強して、なんのために東大に行ったのか。自分が生まれ育った環境や必死に努力してきたことと、今の自分がやっていることの間にある溝をどうにかしたいという感覚が日に日に強くなっていた。


「成長」になんの意味があるのか

私が大学を休学して田舎に移住したのは、競争社会に生きづらさを感じていたからだった。休学した理由を色々と並び立てることはできるけれど、シンプルに疲れた、というのが一番正直な理由だった。

大学に入ってからの私は、今まで信じ込んでいた「成長」というものに価値を見出せなくて、それまでのように努力ができなくなっていた。努力できない自分に苛立ちを感じることもあった。

「成長」という肯定的な感情と、「効率的にお金を稼ぐ人間になること」を結びつけて、人を際限なく駆り立てることに長けた社会システムだなと思う。その成長を繰り返した先に私の幸せはあるのだろうか、と思うと、全てが虚しく感じた。

成長の定義について話し合う隙が与えられる間もなく、子供の頃から競争環境に放り込まれる。訳もわからないまま大人から一方的に評価され、そこで与えられる「成長」の定義は「要領の良さ」とか「従順さ」であることが多い。

より効率的・生産的に働くために、休むことや遊ぶことを犠牲するのが社会的に称賛される。

成長したいという欲求自体は素晴らしいものだし、無理矢理やらされているとは思っていないからこそ、自分でも気付かぬうちに疲弊してしまっいて、ある時ポキっと折れてしまった。

「努力できる」ということがアイデンティティだった私が頑張れなくなるなんて、自分でも信じられなかったし、10代の頃に私と関わっていた人からしても想像できないことだったと思う。

無視された「成長」の軸に目を向ける

就活において「その企業に成長環境があるか」「20代のうちにどれだけ成長できるか」みたいなことがよく言われる。
そこでいう「成長」は、お金を稼げるとか企業の利益に貢献する人間になるという意味での「成長」であると私は思っている。

そういった「成長」もいいと思うけれど、どういう軸における成長が自分の人生全体にとって大事なのかはよく考えた方がいいんじゃないかと私は思っている。

本心に嘘をつかないこととか、損得勘定抜きで人と関わることとか、心と体を健康に保つ方法を知ることとか、暮らしを大切にすることとか、現代社会で無視されがちなことにも「成長」を見出すことができる。
むしろ社会で無視されがちなことほど、意識してみたほうがいいと思う。意識しないと簡単にないがしろにされてしまうからだ。

休学中に色々なことを経験し、自分にとっての「成長」がどれだけ視野が狭いものであったかを実感した。

人との関わりにおいて合理性とか効率性より大切なことがたくさんあって、それに気づかずに周りの人を傷つけてしまったこともあった。これまでのやり方が通用しなくて、今までの努力が否定されたように感じることもたくさんあった。

「超えて含む」という視点をもつ

山梨でスローライフを送ったことは、これまで染み込んできた「成長」についての思い込みを外すいい経験になった。

色々な価値観に触れて、自分が大切にしたいことが少しずつわかってきた。

けれども私は休学期間で、競争的な価値観から解放されることはなかった。

競争社会から逃げて、嫌悪すればするほど執着が生まれ、そこに囚われるというジレンマがあった。
本当にそこから解放されて次のステージに進みたいと思ったら、逃げることだけではなく受け入れること、どちらも大切なのだと思った。

私のバイブル的存在であるケン・ウィルバーの「インテグラル理論」の中に、「超えて含む」という概念がある。「超えて含む」とは、今まで当たり前だと信じ込んでいたものを相対化して客観視できるようになる(越える)ことと、それを再度自分の中に取り入れる(含む)ということである。「成長」とは、「超えて含む」ことの繰り返しであるということをウィルバーは主張している。

私は競争社会の価値観を超えてはいたが、含むことはできなかった。

一度距離を置いた上で、また入り込んでいくことができれば、マジョリティの価値観と、自分にとって本当に価値のあると思えるものを融合させることができるんじゃないかと思うようになった。それは否定することではなく、理解した上で受容することである。

絶えず自分を駆り立てて何か成果を出していかないといけないとか、立派な人間にならないといけないとか、成長環境に身をおかないといけないとか、そういった価値観がどれだけ幼少期から染み込んでいたとしても、今の自分は大人なので、そこから抜け出すことはできる。

自分が「こうするべき」と思って自分を縛り付けていただけで、実は今の私は誰からも強制されてはいなかった。だから逃げても別にいい。でも、逃げられることがわかっていてもなお、あえてそれを選ぶということもできるかもしれない。

私が就活を始めたのは、社会の暗黙の了解みたいなものや、自分が積み上げてきたものをできるだけ受け入れ、「こうあらねばならない」という思い込みは手放して、自分なりの道を作っていくことができるんじゃないかと思ったからだ。

幸せの定義を考える

就職活動をするにあたって、改めて自分にとっての「幸せ」とはなんなのか、ということを考えた。

幸せに生きるためには、以下の三つさえあれば良いという結論になった。

①心と身体の健康
②良好な人間関係
③誰かの役に立っているという感覚

重要度で言うと、①≧②>③である。

①心と身体の健康
健全な心と身体があるからこそ、健全なアウトプットが生み出せると思っている。健康こそが全ての基盤である。

山梨に住んでいたときは、自然の近くにいないと自分の心身のバランスが崩れてしまうんじゃないかと思っていたけれど、東京で3ヶ月くらい暮らしてみて、意外と大丈夫だということに気がついた。

心と体の健康を保つためにはたまに自然に触れた方がいいし、体に良いものを食べた方がいいし、たくさん睡眠をとった方がいい。けれどもあまりにストイックにやりすぎるのも逆効果なので、ゆるっと健康に気をつけた生活をおくっている。

②良好な人間関係
いろんなバイトをして気がついたことだけど、どんなに仕事内容がつまらない職場でも、一緒に働いている人との関係性が良くて、くだらない話で笑うことができれば、割と楽しく働ける。

自分一人が大切にできる人の数はある程度限られているから、そんなに人間関係を拡大する必要がないということにも気がついた。仲のいい数人とちゃんと仲が良いことが何より大事だということをなぜ忘れてしまうのだろうか。最近インスタやフェイスブックをみるのもやめてみたらなんだか気持ちが楽になった気がする。

③誰かの役に立っているという感覚
これは①と②よりは優先度は低い。誰かの役に立たないといけないとは思わないけれど、せっかくなら誰かの役に立っていると思えるほうが嬉しい。

今、私はマッサージ屋さんでセラピストとして働いている。目の前のお客さんがリラックスして、施術後のスッキリしている様子を見たときにすごく嬉しくて、なんて楽しい仕事なんだと思う。

大きなことじゃなくてもいいから、何かしら人の役に立っているという感覚があったらそれが生きる糧になると思う。

就活をする中で、たくさんの企業の事業内容を調べた。自分にとっての幸せの基準と照らし合わせても、本当に人の幸せに貢献しているな、と思う事業をやっている企業があったことは私にとって希望だった。そういう企業の中で働くことができたら、何かしら他者の役に立っている実感は得られるんじゃないかと思う。

大学での学びを生かす

世間のレールから外れてみて、学校教育や大学での勉強は、大きな組織の中で効率よく働く人間を育成するためのものであったことを実感した。自給自足的な生活というのは全くの専門外で、学校で学んだことが生かされることはあまりなかった。むしろ、緻密に考えすぎるということがマイナスに働くこともよくあった。

一方で、学校で学んだことが役に立たないとも思わない。東大で出会った人たちの思考力の高さはやっぱりすごいなと思う。頭の回転の速さとか、思考の緻密さとか、言語化能力とか、私には一生かけても無理だと思うくらいすごい人たちがいて、こういう人たちがいるから世界の巨大なシステムが回っているんだなと思う。

大きなシステムを回すということにおいては、受験勉強や大学で得る思考力や情報処理能力というのが役に立つんだろうなと思う。

私は地頭はそこまで良くないと思っているけど、それでも東大卒業の一歩手前まで来るくらいには頑張ってきた。東大で出会った人たちのような優秀な人たちの中でやっていけるかはわからないけれど、やれるだけやってみるのも面白そうだなと思う。大きなものを動かそうと思ったら、組織の中でしかできないこともある。

今まで積み上げてきたものよりも、これから何をしたいか

経営学の授業で、サンクコストという概念を習った。
サンクコストとは、過去に払ってしまい、もはや取り戻すことができない費用のことである。将来に関する意思決定をする時には、サンクコストは考慮に入れず、今後の損益をだけを考えるのが合理的な判断だと言われている。

私は今までの人生で、今まで積み上げてきたものよりも、これから何をしたいかをいつも大切にしてきたし、そうしてきてよかったなと思っている。競技ピアノの世界で成長の限界を感じたときはすぐにやめて勉強に切り替えたし、東大に行ったからといって必ずしも出世しないといけないわけではないと思って田舎に移住した。

スティーブ・ジョブズのconnecting the dotsの話を聞いたことがある人も多いと思うけれど、そんな感じで、思いもよらないような繋がりは後から生まれてくるものだから、わざわざ目に見えた繋がりを作ろうとする必要はないと思う。

就活を始めたのも、「東大まで行って就活しないのはもったいない」という気持ちよりも、「せっかくの機会だからやってみたら面白いんじゃないかな」という気持ちが大きくなったからだ。

これから何をしたいかにフォーカスしていれば、いつか点と点が繋がる時が来ると信じている。

心が死なない就活をする

就活に対して違和感はあるけれど、それなりにちゃんとやれている。とりあえず、心が死なないことを目標にしている。回復できるだけの傷で済ませる。

面接ウケする話し方を研究し、定番質問に対するテンプレ回答を用意し、どれだけ自分が企業で「役に立つ」人間かを表現する。そうやって表現は工夫するけど、本音しか言わないと決めているし、合わないと思ったら落としてくださいという気持ちで望んでいたら、めっちゃウケの良い企業とめっちゃウケの悪い企業がはっきりとわかれる。面接官の方々の考え方や価値観も人によって全然違うんだなと思う。

心の中で「コント・面接」と唱えると緊張が取れるみたいな就活系YouTuberのコメントをみていいなと思ったので、しんどくなりそうな時はこれを実践している。

それにしても、ただの「就活」における評価でしかない評価を、自分自身の本質的な価値と切り離して捉えるのは相当難しいことだなと思う。

今でこそそんなに傷つかなくなったけれど、大学3年生で初めて就活をしたときは、自分の価値を否定されたように感じて落ち込んだ。

これを乗り越えて就職している人たちは本当に全員すごいと思う。


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これだけ散々語っておいて、就活失敗したらまた森に帰るかもしれないので、その時はよろしくお願いします。(森の開拓は細く長く続けます。)


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