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大学四年間を通して学んだことを振り返ってみた

私は大学で、教育学部で美術を専攻して学んでいました。
その中で教師という立場について、学ぶということについて、いろんなことを考えた気がするので、その学びを共有したいと思います。
※大学4年生の際に私が書いたレポートを引用しています。

 私が教職課程で学んだことは大きく3つあります。一つ目が、教えるということには知識を与える他に、興味関心も同時に与えなければならないということです。二つ目は、教師の仕事はキッカケを与えることに過ぎないということ。そして三つ目が、承認することの重要性です。

 一つ目の、「教えるということには知識を与える他に、興味関心も同時に与えなければならない」は、私が大学内の授業を受けたとき、また、教育実習において私が児童や生徒に対して教える立場になったときに強く感じたことです。
そもそも、教えるということにおいて、知識のみを与えるのであればおそらく、教師より教授や学者がそれを行った方が適切なように思います。知識であれば四年間で各科目を少しずつさらっただけの私たちではおそらくその量が根本的に足りないでしょう。
教師になり、歳を重ねるごとにその量はおそらく増えますが、それでもやはり不十分なように思えます。

それではなぜ教師という職業が存在しているかということを考えた時に私は、興味や関心を引き出すことに長けているからだと思いました。あるいは学部での学習を通して、それを身につけているからだと思いました。研究者が知識の面においてプロだとするならば教師は、児童や生徒の興味関心を引き出すということにおいて、プロだと思います。同時にプロであるべきだと思います。

これはおそらく教師に限らず、他のことにおいても言えるのではないでしょうか。例えば企業に勤める立場になったとしても、自己のスキルを後輩に教える際や、息子や娘にキャッチボールなど、別のことを教える際にも言えることだと思います。
子ども達に、あるいは部下にこれはここが面白いんだと伝えることや、そう感じてもらえるような教え方を選択する能力がこの約四年間を通して身についたように思います。

 二つ目の「教師の仕事はキッカケを与えることに過ぎない」ということについては、上記の内容と一部関連しています。興味関心を知識と同時に与えるとはいえ、その興味関心を感じるポイントはそれこそまさに十人十色です。算数に興味がある人がいれば、国語が好きな人もいる。もちろん体育や図工、家庭科なども同様です。
それを踏まえて、学ばせることを強要してはならないと私はこの4年間非常に強く感じました。
こんなにも面白い世界がある。知れば知るほど面白くなる物事が世の中にはたくさんあると、自己が取り扱う分野において語ること、伝えることは教師という立場における責任であることはいうまでもないでしょう。
しかし、それをどう受け取るかは児童や生徒をはじめとする受け取り手次第なのだと思います。強要してしまうと、もはやそれは教育ではなく、強制になってしまいます。
教師という立場に必要とされているのは、面白いかもしれない、もっと学んでみたいと受け取り手が感じるようにそのキッカケを作ってあげることなのではないでしょうか。
勉強という大きな概念自体に対する抵抗がなくなるような個人のスタンスを育てることとほぼ同義かもしれません。
ここで私が言いたいことは、最低限担わなければならない部分はあるかもしれませんが、あくまで学びは個人の自由であって教える側の人間は受け取り手が学べる人になるためのきっかけを作ってあげる人でなければならないのではないかということです。


 三つ目の「承認することの重要性」は私が教育実習を通して、また美術という分野を通して学んだことです。こと美術において、正解というものは全くありません。おそらく学ぶスタンスにも正解はありません。
どんな絵を描いてもいいのです。また、どんな学び方で物事を学んでもいいのです。
好きな科目だけとにかく頑張る子がいたとしても、それは悪ではないと感じました。しかし、成績をつけるということは半ば承認と同時に非承認も生み出します。好きな科目だけ頑張る子は、他の科目において、低い成績をつけられ、「他の教科ももっと頑張ろうな。」と教師に声をかけられることでしょう。
そして、大好きだった科目の勉強をやめ、他の好きでもない科目を頑張ります。この状況はおそらく教育現場で多発していることだと思いますが、決して健全ではないと私は思います。
好きな科目があるならばそれを必死に勉強すればいい。その姿勢を認めてあげないと勉強すること自体が嫌になると思います。親御さんへの説明責任を果たしたり、全科目受験が一般的な日本の教育においてその子の将来を考えたりすると一見して、全教科平均して学ばせたほうがいいように思えるかもしれません。
しかしは私は、その子の学びに対する姿勢自体を承認してあげることが、何よりも重要だと思います。
上記の例に紐づけて具体的な例を挙げるとすると、算数がとにかく好きで国語がとても苦手な子がいたとしましょう。おそらくここでおこなわれるコミュニケーションとしては、「算数はすごい。だけど国語をもう少し頑張ろうな。」というものが考えらえます。これは教師として私は間違ったコミュニケーションだと考えます。私はここで、「算数がすごい。よく頑張っていると思う。この君の間違った文章題は、国語をちょっと勉強してみたら面白いほど解けるようになるよ。」のようなコミュニケーションを取るほうが適切に思えます。
私は教育現場について、実習を通してたった一ヶ月やそこら行ったくらいなので詳しくは分かっていないと思います。ですが、教育において承認は、その有無がその後の人生すらも左右する可能性があるほど非常に重要かつ、教師に求められるスキルなのではないかと学びました。

 最後に、上記3項目は全て教育現場一つに限った話ではないことだと私は考えています。おそらく友人との会話に始まり、勤務先での仕事、後輩や先輩との会話など、どの場面においても言えることです。私はこの四年間で得たこの視点を常に心の中にとどめ、社会人としての一歩を踏み出していきたく思います。

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