小説 松戸のゲバラ


彼女がゲバラの顔を知ったのは、対して好きでもない男の部屋を訪れた夜だった。
酔った上のすったもんだで部屋に上がったわけだが、心はとうにゲバラに奪われてしまった。
部屋に貼られたポスターの中のゲバラはまごうことなくハンサムでワイルドでどこか懐かしさを感じた。
「この人、誰?」
「ゲバラだよ、ゲバラ、革命家。ウィキで調べれば?」
男は果てたあと寝た。
いつもだったら不機嫌になるところだが、今回は好都合である。
急いで黄変したセロハンテープを剥がし無事ゲバラを奪うことに成功し、彼女はその部屋を去った。もう終電はとっくのとうにないが今夜は歩きたい気分だ。家まで一時間かかるがどうだっていうのだ。我は泥棒、地獄に落ちるばかりなり。
すっかり舞い上がった彼女は丸めて小わきに抱えているポスターから何やら声がすることに気づいた。
酔ってんな、うち。
頭を振っても声は鳴り止まない。
恐る恐るポスターを広げてみると、ゲバラの口が動いている。
「お前は間違っている。お前の魂は弱くない、他人に服従する生き方などお前には不似合いである。」
ゲバラはさらに言う。
「俺と一緒に革命をおこすのだ!立ち上がれ女革命戦士よ!」
ゲバラは日本語がぺらぺらであった。
革命とは何か?彼女は全く理解できなかったので、とりあえずベレー帽を買い漁ることにした。ゲバラがかぶってるもの。形からはいることも大切だと思ったのだ。
そして毎日ベレー帽をかぶることにした彼女は長く伸びた髪をベイビーショートに切り、明るい茶色に染めた。
フランスの不良少年のようになった自分に彼女はすっかり満足した。
男性陣にはとても評判が悪かったが、そんなことは気にもとめなかった。
ベレー帽は彼女のマストアイテムとなりシンボルになった。
そのうちベレー帽をかぶらない自分など考えられなくなり、風呂場でもかぶるようになった。頭を洗った濡れた髪にベレー帽をのせる時、なんとも言えない湿った気分になったがやめられなかった。
ゲバラは私に何をさせたいのか、そもそも私に何かできることがあるのか彼女にとって全くの疑問だった。
しかし、ゲバラに対する恋心は燃え盛るばかり、現実の男などどうでもよくなっていた。
彼氏のいない人生がはじまると、たくさんのことを独りで考えるようになった。
怖いものが減り、泣かなくなった。
自分は弱い人間であるが、孤独には強いこともわかった。
独りでライブを観に行ったり、クラブで踊ったりできる人間だとはじめて知った。
相手の顔色をうかがうよりも、自分の意思で動けるということがこんなにも心地好いものだとは思わなかった。
ゲバラのポスターは松戸市内の公団の狭い自室に貼ってある。ゲバラと向き合うと自分の脆弱性が理解できるような気がした。
毎日書物を読み、日本語の美しさを堪能し好きなアーティストの音楽をヘッドホンで繰り返し聴いた。独りでももう怖くなかった、音がそこにあった。
今やこの日本で革命をおこすことなど、もうどうでもよくなっていった。
ただゲバラと自分がいればいい、国が滅びてもよい、私と家族とゲバラがいれば、あと好きな人達が元気に生きてくれればと彼女は思った。
「国家権力上等」彼女はひとりごちた。


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