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消しゴム入門〜モノの世界へようこそ!

▼はじめに
チェルフィッチュ×金氏徹平は新たな実験として2020年5月から『消しゴム畑』の配信をはじめました。1回目の配信をご覧いただいた方、ありがとうございます。いかがだったでしょうか。まだご覧になっていない方、はじめまして。これからよろしくお願いします。第1回『消しゴム畑』はこちらからご覧いただけます。

さて、明日6月6日(土)には第2回『消しゴム畑』の配信がはじまりますが、その前に『消しゴム畑』をより楽しむためのいくつかの視点をご紹介したいと思います。創作のきっかけ、思想的背景、美術家の金氏徹平さんとのコラボレーション作品であること、子供たちと俳優とのワークショップのこと、チェルフィッチュのこれまでの作品との関係などなど。トピックは色々あるのですが、全部を理解しなければ作品がわからないというわけではもちろんありません。面白いと思うポイントは人それぞれ、楽しみ方も様々です。
とはいえ、1回目の配信をご覧になった方からは「これは演劇なの?」と戸惑う声も聞こえてきました。この文章はそんな方にも『消しゴム畑』を楽しんでいただくためのファーストステップとして、そして楽しんでもらえた方にはより楽しんでもらうためのガイドとして書かれています。
まずはひとつ、あなたが興味のあるトピックに関するパートを読んでみてください。『消しゴム畑』を耕す営みは今後も続いていきます。いくつかの『畑』を覗いたあとでここに戻ってくるとまた新しい発見があるかもしれません。観て、読んで、あーだこーだ言って、『消しゴム畑』を耕す営みに参加していただけたらうれしいです。

▼そもそも『消しゴム畑』とは

『消しゴム畑』はKYOTO EXPERIMENT公式プログラムとして上演された劇場版『消しゴム山』(2019年10月)、金沢21世紀美術館の展示空間で展示・上演された美術館版『消しゴム森』(2020年2月)に続く、「消しゴムシリーズ」のオンライン版です。

「人とモノが主従関係ではなく、限りなくフラットな関係性で存在するような世界を演劇によって生み出すことはできるのだろうか?」

チェルフィッチュ×金氏徹平はこのような問いを掲げ、人とモノと空間と時間の新しい関係性を提示することを試みてきました。

▼陸前高田を訪れて——「人間的尺度」への疑い


陸前高田リサーチ時(2018年)の写真

でも、「人間的尺度」を疑う、とはどういうことでしょうか。モノにフォーカスをあてている以上、そこにあるのが自然v.s.人間という単純な二項対立でないことは明らかです。岡田さんは、考えていたのは「人間中心主義をこの世界の中で適用する分をわきまえる、みたいなこと」で「モノと自然の間に、違いをつけてはいません」とインタビューに応えています。参考にした書籍として岡田さんが挙げるティモシー・モートン『自然なきエコロジー』(以文社)では、自然を人間と対立するものとしてでなく、人間や都市、テクノロジーを「とりまくもの」として考えることで「エコロジー思想」の刷新が図られています。『消しゴム森』では同書の訳者である篠原雅武さんをお迎えしてのトークも行なわれました。

▼モノとの新しい関係——金氏徹平さんとのコラボレーション

「消しゴムシリーズ」はチェルフィッチュと金氏徹平さんによる共同作業の現時点での到達点でもあります。日用品を素材とした金氏さんのコラージュ作品の中で、モノは人に使われる道具としてのあり方から解き放たれ、他のモノたちとの新たな関係を結びながら全体を構成します。金氏さんのセノグラフィー(=舞台上の環境、舞台美術と訳されることもあります)に囲まれた俳優は、そんなモノたちと関係を結び直すための新たな方法として「半透明」を開発してきました。

▼「半透明」になる——子供たちと俳優とのワークショップ

『消しゴム山』の上演に先立ち、「チェルフィッチュといっしょに半透明になってみよう」というワークショップが開催されました。これは子供と大人がともに体験できる「客席」をつくるプロジェクト「コネリング・スタディ」の第一弾で、俳優と子供が「半透明」になるための実験を一緒に行なうものでした(ワークショップの様子はこちら)。


コネリング・スタディの様子

写真からもわかるように、「半透明」になるための実験の様子は「かくれんぼ」にも似ています。「かくれんぼ」でうまく隠れるためには、普段とは違ったモノとの関係を結ばなければなりません。
あるいは、金氏さんが舞台美術を、岡田さんが台本・演出を担当しKAATキッズ・プログラムとして初演された『わかったさんのクッキー』(原作:寺村輝夫、2015年初演)では、様々なオブジェを別の何かに見立てる「ごっこ遊び」のような手法が使われていました。子供の遊びの想像力は「消しゴムシリーズ」にとっても重要なポイントです。

「半透明」はもともと、写真家の川島小鳥さんの作品を金氏さんが分析するなかから出てきたコンセプトです。川島さんの写真のなかには、被写体が建築やオブジェと一体化したようなものがあります。金氏さんがそこに見出した「半透明」を使えば、「人とモノとのフラットな関係」を結ぶことができるのではないか。『消しゴム畑』に通じる俳優の方法論はそうして生まれてきました。

▼モノ化する体——チェルフィッチュ的身体

金氏さんと岡田さんが初めて一緒に作品を作った『家電のように解り合えない』(2011年)にこんな場面がありました。俳優がセリフをしゃべりながら腕をぐるぐる回していると、舞台装置に組み込まれた自転車の車輪も連動して(?)ぐるぐると回り出すのです。これを見た私が感じたのは、モノが人のように動き出したというよりはむしろ、俳優の腕が人の部分であることをやめ、単なる物体として動き出したような印象でした。

人間の身ぶりがモノの運動のようになってしまう現象は、実はチェルフィッチュの初期の作品にも見出すことができます。超口語演劇とも称されるだらだらとしたしゃべり方で注目を集めた『三月の5日間』(2004年初演)での俳優は、しゃべり方と同じようにだらだらとした捉えどころのない動きを見せていました。これは人が普段、無意識にやっている動きを抽出して演技化したものなのですが、体の一部が意識の外側で勝手に動いている(ように見える)とき、それはなかば「モノ化」していると言えるのではないでしょうか。チェルフィッチュの作品のなかにはコンテンポラリーダンスとして上演されたものもあり、それは人の体の動きの「運動」としての側面にフォーカスをあてたものだということができるかもしれません。


『三月の5日間』(©Toru Yokota)

▼「今ここ」ではないどこか——時の関節を外してみる

『消しゴム畑』には今のところ言葉は使われていませんが、『山』と『森』では物語の断片らしきものが語られていました。そこにもこれまでのチェルフィッチュ作品と共通する要素を見出すことができます。「消しゴムシリーズ」はチェルフィッチュにとって新たな試みですが、同時に(当然のことですが)これまでの作品の積み重ねのうえにあるものなのです。
『山』の第二部ではタイムマシーンを使って現代にやってきた未来人に選挙権を認めるかどうかをめぐる(不毛な)議論が展開されます。これはたとえば『地面と床』(2013年)でこれから生まれてくる子供のために日本という土地を捨てようとする女性(=未来)とそこに埋葬された死者(=過去)との間に生じる摩擦や、『部屋に流れる時間の旅』(2016年)で亡くなった妻(=過去)と新たな恋人(=未来)との間で揺らぐ男(=現在)の葛藤にも通じるモチーフです。
『山』と『森』ではここにモノの視点が導入されることになります。青柳いづみ演じる未来人(?)は(厳密には彼女の姿を映した映像は)モノたちを前に「人間には時間というのは、大大大問題だった」と演説をします。でも「時間は人間にしかない」から「分かんないですよね」という彼女。人間は過去と未来を現在と等価なものとして考えることができません。「時の関節が外れてしまった。The time is out of joint.」とはハムレットの有名なセリフですが、時の関節を外してみて初めて見えてくるものがあるのかもしれません。


『消しゴム山』(©︎Yuki Moriya)

▼山から森へ、そして畑へ——「消しゴムシリーズ」の展開

時間のあり方の変化は『山』から『森』への形式の変化にも表れています。劇場版の『消しゴム山』では、130分という上演時間を通して物語の流れのようなものが(一応は)提示されていました。しかし美術館版の『消しゴム森』では場面は物語の流れから解放され、7つの展示室とそれを取り囲む空間の中にばらばらに配置されることになります。俳優のパフォーマンスは空間のあちこちで散発的に行なわれ、しかもそれはしばしば繰り返される。それを見る観客も展示空間を回遊するので、作品に線的な時間の流れとしての物語は存在しません。展示室というのはモノのための空間です。展示室を訪れた観客はすでに「モノたちの世界」に足を踏み入れているのです。では、『消しゴム畑』はどうでしょうか。


『消しゴム森』(撮影:木奥惠三、写真提供:金沢21世紀美術館)

『山』や『森』と異なり、俳優個人の生活空間で「上演」される『消しゴム畑』は一見したところ極めて「人間的」なものに見えるかもしれません。しかし考えてみてください。布団のうえでゴロゴロと本を読んでいるとき、ソファでリラックスしてテレビを見ているとき、パソコンの画面とにらめっこしているとき。意識の輪郭はぼやけ、あなたは空間の一部となっていはしないでしょうか。ドアを開閉するとき、洗濯物を干すとき、お茶を入れるとき。あなたはそれらのモノの機能=運動の一部に組み込まれているはずです。あるいは、ステイホームでずっと家にいると、まるで時間が流れていないかのような感覚を覚えませんか。そのときあなたはすでにモノの世界に取り込まれかけている、のかもしれません。

▼おわりに

いかがでしょうか。『消しゴム畑』を耕す準備は整いましたか。おそらく『畑』にはまだまだ色々なものが埋まっています。たとえば私は『消しゴム畑』の俳優たちを妖怪みたいだと感じました。長い年月を経た道具には魂が宿り、付喪神とも九十九神とも呼ばれる妖怪になることがあります。俳優はモノになったのではなく、元の姿に戻ったのではないかと、そんなことを思ったわけです。実際のところ、気づけば本当にモノになってしまっている俳優もいました。こんな風に、観客ひとりひとりが思い思いに『畑』を耕すことで、きっと実りは豊かなものになっていくでしょう。「消しゴム畑はわれわれ誰しもの住まいの、すぐ裏手に存在します」(『消しゴム畑』ステートメントより)。皆様、次の『消しゴム畑』でお会いしましょう。

『消しゴム畑』詳細
https://chelfitsch.net/activity/2020/05/eraser-fields.html

チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム畑』
作・演出:岡田利規
セノグラフィー:金氏徹平
出演:青柳いづみ、安藤真理、板橋優里、原田拓哉、矢澤誠、米川幸リオン
映像ディレクター:山田晋平
音声プランナー:中原楽(ルフトツーク)
音声オペレーター:安藤誠英、上島由起子
衣裳:藤谷香子(FAIFAI)
演出助手:和田ながら
プロデューサー:黄木多美子、水野恵美(precog)
オブザーバー:鈴木康郎、川上大二郎、髙田政義(RYU)

文:山﨑健太