ひと休みエッセイ① 〜おとなのあかちゃん〜

 大学生というのはとても中途半端な存在である。年齢的には成人を超えているのに、社会人ではないという、大人でありながら子供という、曖昧な時期を過ごさなくてはならない。大学では課題を課され、講義への出席を求められる。大学は自由であるとは言うが、その生活に能動性を見出すことは難しい。一方で大学から一歩外の世界に出ると、成人としての振る舞いを求められる。それは当然のことでありながら、一種の矛盾を感じる。そしてその矛盾は、往々にして多くの大学生を混乱させているように感じる。

 そもそも大学生とは、最も社会に近い学生であり、社会や大人と接する機会も非常に多い。アルバイトやインターンシップ、就職活動や課外活動などをする中で、自分は社会の一員だと認識する機会が増える。そしてそこでは1社会人として評価してもらえるように感じる。しかしながら、その評価は社会人としての評価ではない。その評価の枕詞には必ず「大学生にしては」「大学生なのに」という言葉が隠れている。この隠れた「大学生」という肩書きに気付けるか否かで今後の自分の捉え方が大きく変わると思う。

 初めてのインターンシップ、初めての課外活動。今まで学生のコミュニティに属していた我々からするとすごく成長した気になるし、大人として認めてもらえたかのように錯覚する。この錯覚によって、大学生は「起業するぞ!」「もう社会で通用するのでは?」と感じることだろう。しかし前述したようにその評価、コミュニケーションは1社会人として得たものではない。大学という母体に属する人間にしては〜だね。という意味を含有しており、言い換えると社会にいる人間としては扱っていないですよということになる。稀にインターンシップでの活躍が認められそのまま採用、活躍する人もいるがそんな存在は一握りのレアケースである。多くの大学生はこの隠れ大学生用評価に気づかない。この構図を感じた時、私はすごく残酷だと思った。何のためにインターンをするのか。その意味を、価値を自分の中に持っていないと誤った自己認識をしてしまうことになるんだと。

 しかし、そうしたFBをもらえることは決してネガティブなことではなく、むしろありがたいことだと思う。まだ社会人として産声すら上げていない学生の段階で社会を経験できること、そして社会を生きる人とコミュニケーションを取れることをもっと大切にすべきだし、そこで違いに気がつくべきだと思う。決して大学生が社会人に劣っていると言いたいわけではない。水平線はどこまでも伸びていて、上と下の色は限りなく近く混じり合っているように見えるかも知れないが、その境界線が揺らぐことはない。そんなふうに曖昧に見える、でも確かにある境界を感じながらこれからも就職活動をしたいと思う。

2023年1月8日

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