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発達障害という 呪い と生きる

先日、人生で初めてインタビューを受けた。

何か、偉業を成し遂げたわけではない。発達障害の当事者についてのインタビュー記事を連載しているライターに自らDMを送って取材してもらったのだ。

当事者として語ることへの違和感を越えて

何故、今、このタイミングでそうしようと思ったのか。一言で説明することは難しい。元々、自分が発達障害の当事者として何かを語ることに対しては、強い違和感があった。重度な障害を抱えているわけでもなく、また何か際立った特技があるわけでもない自分が、「発達障害の当事者」という看板を背負って何かを話すことに社会的な価値はないと思っていたことが一番の理由だ。

そもそも、個人的に、有名人、一般人問わず「発達障害の当事者」として誰かがなにかを語っているのが好きではなかった。誰の話を聞いていても正直「お前が当事者を語るなよ」という思いが少なからずあった。だから、自分が仮に当事者として何かを語っても、必ず同じように違和感を持つ人がたくさんいると思った。せめて、自分は、当事者として何かを発言することで誰かに窮屈な思いをさせたくないと思っていた。

実際に、日本で障害者のオピニオンリーダー的な存在になっている乙武洋匡さんの元には、何か発言をするたびに、必ず「お前が障害者の代表者面をするな」といったリプライが大量に届くという。

これに対して、乙武さんは、一貫して、「障害者の代表として何かを語ったことは一度もない。でも、個人としてはこれからも思ったことを発信したことを貫いていく」というスタンスをとっていて、なるほど、「当事者として何かを語ること」と「当事者」を代表することはイコールではないのか、と気づかされた。

そんな経緯から、「当事者として何かを語ること」への心理的な抵抗が少なくなったというのは自分にとって大きな心境の変化であった。が、今回インタビューを受けようと思った背景にはもっと別の理由もあった。

ダイバーシティーという幻想

僕は今、教育・福祉系のベンチャー企業で正社員として働く傍ら、副業でいくつかの仕事や活動をしている。本業の教育・福祉系のベンチャー企業では、教育の現場で、主に発達障害を抱える子どもに対する支援を行っている。当事者として、子どもの支援に関われることは非常にやりがいを感じているし、今の職場は客観的に見て働きやすい環境だと思う。

しかしながら、正直なところ、もう半年以上前から、教育の現場で働き続けることに対して限界を感じていた。元々は、出版社やテレビ局、広告代理店に憧れていて、何か人の心を動かす作品を作ったり、商品のサービスの魅力を世の中に広めてムーブメントを仕掛けるような仕事がしたいと思っていた。教育には大学時代にキャリア支援に関わった経験から関心があったが、福祉にはこの仕事につくまで全く関心がなかった。「目の前の1人の子どもと向き合うことがいつか世界を変えることに繋がる」初めの頃は素朴にそう信じて現場でがむしゃらに働いていたが、次第に、今すぐに社会に対して、影響力のあるものをつくりたい、発信したいという思いが強くなって来た。今は、現場での仕事をやりがいを持ってやっていたとしても、5年後、10年後自分が、同じ仕事を続けているイメージが全く持てなかった。

今の会社には、新卒で入社した前の会社で、会社の将来性や、自分が一般就労者として働くことに、限界を感じたことから、ダイバーシティー雇用枠(いわゆる障害者就労枠)を使って転職した。「障害のない社会をつくる」をヴィジョンに掲げ、自分と同じ発達障害を抱える子どもや大人の支援を事業としている会社は、自分にとって「障害」というハンディキャップを強みに変えられる天職だと思った。自分の特性が存分に活かせる仕事が与えられ、主張を続けていたら誰かが自分の才能を見出してくれるという淡い期待をしていた。

しかし現実はそう甘くはなかった。最初のほうこそ、仕事が休みの日にも、興味がある部署の人にアプローチするために私用で本社に行くような活動的なところを面白がって話を聞いてくれる人も多かったが、本業で目に見える実績を残せない僕は次第に相手にされなくなっていった。社内の人と話していても、話している途中で、大きなズレを感じるようになっていった。掲げるヴィジョンに対して共感や期待が大きかった分、誰にも共感できず、誰にも共感されないという現実が辛かった。

そんな現状を振り返って、「ダイバーシティー」という言葉に自分が過度な幻想を抱いていたことに気づかされた。会社は、今ある職場が個人にとってより働きやすい環境になるための支援はするが、あらゆる個人の居場所を保証したり、キャリアを保証したりはしない。会社組織を経営するという視点で考えたら当たり前のことである。

個人の時代を生き抜くために

一方、幸い思いがけないところから、本業以外の仕事や活動が、広がっていって、いつしか本業は、毎日のルーティーンの仕事をこなすだけの日々になっていた。子どもに対しては全力で向き合っているつもりだが、自己の成長や、事業のサービスの向上に貢献しているという実感は全く持てなかった。会社での将来像が描けない不安、年齢相応のビジネススキルが身につかないまま時間だけが過ぎていくという焦りは、個人として仕事をとって生きていけるだけのスキルと発信力を身につけなければという思いを加速させていった。

会社では、広報や編集の仕事を希望していたが、去年の公募の結果で、今のままではほとんど可能性がないことは明白だった。ひとまず、個人でブログを書く中で、ライティングや編集のスキル、発信力を磨いていこうと持った。

26歳にして何者でもない僕が唯一当事者として語れて、少しでも社会的意義がありそうなこと。考えた尽くした際に行き着いたのが「発達障害の当事者としての語り」だった。それ以外は何もなかった。

「普通」に生きることを諦めた日

前置きが長くなってしまったが、高2の時に発達障害と診断されて以来、軽度なことを幸いに、できれば、「発達障害」であることを忘れて生きていきたいと思っていた僕は、気づけば、「障害者枠」で入社した会社で、自分と同じ、「発達障害」を抱える子どもを支援する仕事をしながら、「発達障害の当事者」として、何かを発信しながら生きていく道を選んでいた。

これは「呪い」だと思った。

きっと、人生の中の様々な分岐点で「発達障害の当事者」としての自分を強く意識せずに生きていく道もあった様に思う。「発達障害の当事者」であることを全面に出して何かを語っている人のことを、発達障害をウリにしやがってと軽蔑したこともあった。普段仕事で関わるもっと重度な障害を抱える子どもや親の抱える苦悩を思うと自分が「発達障害の当事者」としての自意識を持つことすら、おこがましいと思うこともあった。

しかしながら、26年間余り、平成のほぼ始まりからほぼ終わるまでの歳月をかけて、自分が社会に対して何かを発信するために選んだ肩書は「発達障害の当事者」だったのだ。

「呪い」という言葉には、そんなやるせなさを込めた。

誤解を招きかねない言い方かもしれないが、僕は、発達障害を抱える人は、診断を受けて、それを受け入れたとき「自分は発達障害である」という呪いにかかると思った。この「呪い」とは、障害からくる具体的な特性や医学的な発達障害の定義は全く別の、
言わば、自意識の問題である。

僕は、個人的な思いとして、診断を下された後も、発達障害であることを自分のアイディンティティにはしたくなかった。あるいは、うまく取り込むことが出来ないと思っていた。

出来れば、普通でいたかった。

そして、普通に生きたかった。

しかし皮肉なことに、成長して自分のことをある程度客観的に見ることが出来る様になれば、なるほど、自分の周囲とのズレ、自分が普通ではないことを突き付けられた。

これまでの人生で、ある時期、ある瞬間、自分が発達障害であることを忘れていられたこともあったが、いつもそれは長くは続かなかった。

僕は「呪い」と共に生きていく

そのうち年を重ねるごとに「普通をよそおうこと」の方が難しくなっていった。今の自分のキャリア、仕事内容を「自分が発達障害である」ことと完全に切り離して説明することは難しい。

26歳というこのタイミングでもう無理に「普通をよそおうこと」を辞めようと思った。そして、発達障害という逃れることのできない「呪い」と共に生きて行こうと思った。

改めて「呪い」という言葉を見ると、息が詰まる様な重苦しさがある。

だけど、僕がこの言葉を通して伝えたかったのは、発達障害が辛く苦しいものであるというネガティブなことではなく、発達障害は、当事者にとって(本人がどう捉えるのかは別として)一生消えることなく付き合っていかなければならないものであるという現実なのだ。

例え、一生消えずに付き合っていかなければならないものを抱えていたとしても、その人生が絶対に不幸だとは限らない。

人によって様々な捉え方があると思うし、自分もこの先、何かがきっかけで捉え方が変わることもあるかもしれない。

現実を踏まえたうえで、未来に希望を捨てないことが

「呪い」と共に生きるということだと思っている。


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