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母は逃げて良いと思った。その2

その1はこちら

「自閉症ってなんなん?」「え?うちの子自閉症なの?え?」という戸惑いしかなかったです。障がいは自分とは違う世界線にあって、全く関係ないところで動いているって思ってました。よく考えたらそんなことはないんだけど、そう思う人が大半ではないのでしょうか。

というわけで、そんな事実を確かめる勇気も無く、だからといって何をすれば良いのかも分からず、この頃はただただ毎日次女を観察する日々が続いていました。

ちなみに当時の次女、おおよそ1歳半。

・発語ほとんど無し
・指差し無し
・他者との交流意欲ほぼ無し
・つま先立ちで歩くことが多い
・その場でえらいことぐるぐる回る
・それに対する周りの反応にはノーリアクション
・寝ない
・とにかく寝ない
・寝つきが悪いなんてもんじゃない数時間単位で寝ない
・おかげで母も睡眠障害

ってな具合でした。もっと細かいことは覚えてるけど大体おおよそこんな感じ。たくさん観察はしたけどそれは、「障がいではないこの子」を見つけるためのものでした。そんな時間がだいたい1年半くらいかかったかな。

夫にもそこはかとない不安と違和感をそれとなく伝えてみました。その後、スーパーに行ったときにカゴを持ってテクテク歩く次女を見ながら「ほら、こんなこともできるよ。大丈夫じゃない?」的なことを言われたことを覚えています。なんとなく、なんとなーくだけど、夫も不安だったんだなあーと思って。その時に支え合えなくてごめんなさい。(お互い様)


「悲嘆のプロセス」って知ってます?

1.ショック期 2.喪失期 3.閉じこもり期 4.再生期

を経て、人は悲しみを享受していくという、グリーフワークの基本的な流れになります。そしてこれはだいたい、誰か親しい人を亡くした方に対するグリーフケアのことを指しています。障がい受容の流れもほぼ同じじゃないかと、常日頃思っています。そしてこれは、なんどもなんども繰り返しループするんだなと思っています。

わたしにとってこの、次女の1歳半~3歳までの時期は「ショック期」であり「喪失期」でした。「我が子に障がいがあるかもしれない」というショックを受けて、そこから「自分が思っていた子どもの将来、子どもとの未来が叶わないかもしれないという、期待の喪失」期になっていってたなと思います。もちろん人それぞれ違うと思いますが、少なくともわたしはそうでした。そして、その「期待」というのは、「この子は、自分が着る服が青が良いか赤が良いか、そういうことさえも、もしかすると自分で選択できないのかもしれない」という不安と悲しみです。そこが一番強かった。

ぜんっぜん関係ないことですが(関係なくもないけど)。

この辺のわたしのグリーフワークの流れのことをめっちゃわかってくれた書籍があったんです。コレ。

20ページ「5.家族支援の重要性」ですよ。「2)親の障害受容のプロセスと支援」ですよ。ここにそのまんま書いているのを初めて見た時は目がもげました。


その後は「閉じこもり期」といえばそうだなと思われる時期を迎えました。その中でも印象に残っているのがこんな感じ。

◆自閉症の従弟がいる友人が意を決して「次女ちゃんのことだけど…」と言ってアドバイスをくれたけど、丁重に支援をお断りした。私のタイミングで動こうと思います的なことを伝えました。

◆障がい児支援の仕事をしていた夫の友人が(以下同文略)

◆保育園の担任の先生が
(以下同文略)

めっちゃ閉じこもっとるな。でも、誰かの判断や誰かの物差しで次女や私たち家族のことを測られたくなくて、タイミングは自分たちで決めるってそう思ってました。不安だらけの中で。その中でも『私が迷っていることで、この子に今できる最適のことをしてあげられてなかったらどうしよう』というのが、一番の不安でした。


タイトルの意味に辿り着いていないのに、つづいちゃう(結局)

どうでも良い日常のできこと②

なんと夫が昨日帰ってきたらげろげろ吐いてました。あれれー牡蠣ウェェェ?って思ったけど時間が経ち過ぎているので心配になりましたが、多分腐りかけた(もしくは腐った)鶏肉食べたんだろうという結論に至ってました。終。