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Rainbow Bridge

最近よく、面白い翻訳や趣のある字幕、コピーをSNSでシェアしている。
かぐや姫の物語中で詠まれた短歌(英語でも掛詞が成立していた)に、観光都市京都とは思えない自販機の英語表記、世界的な映画祭の通訳で起こったロストイントランスレーション。
日々進化していく言語社会の中で、日本語と英語の互換性、翻訳シフトに着目するのが本当に楽しい。
(ちなみに選考試験でこの話をすると、熱がこもりすぎたのか若干面接官に引かれた)

しかし1回だけ、こういった普段の姿勢を後悔したことがある。厳密には今も後悔している。


Rainbow Bridgeという英詞を知っているだろうか。
勿論、あの封鎖できない巨大な橋ではない。
詳しく書けるほどに私の心はまだ整理されていないので、興味があれば調べてほしい。

私はこの詩を母から教わった。
最初は日本語訳で、次は原典の英語で、その次は別の日本語訳で。元々は英語らしいから読んでみて、と言っていっぺんに3つの編をくれた。
見つめる母の目にはうっすら涙が浮かんでおり、横にいた父にもティッシュで目を押さえた跡があった。それを覚悟して、じっくりと読んだ。

家族でただ一人、私は泣けなかった。

愛情の深さでも、感受性の豊かさでもない。
2種類の日本語翻訳の差に意識がいくあまり、英詞をまっすぐに受け止めることができなかったのだ。

翻訳者の意志とは本当に強く、訳文には調子やリズム、間など様々なこだわりが見える。長い時間と労力がかけられたものほど、それがたとえ一単語であろうとも、背後にある知識や歴史、示された訳に至るまでの葛藤を何よりも先にイメージしてしまう点において、文章の楽しみ方を一つ失ったような気がする。

父や母の気持ちを和らげたこの詩を、この力を、私は一生忘れない。英語を専攻していることにその責任を押しつけるのが的外れであることは重々承知しているが、素直に届かなかったこともまた忘れないだろう。

余談だが、「十戒」のように、英語圏には作者不詳の詞が沢山ある。そのどれもが様々な時代に生きる人々を救ってきたし、これからも受け継がれていくことにちがいない。


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