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6月30日、アインシュタイン記念日

<長めの前置きのこと(はじめに)>

1905年6月30日は、まだ無名の技師だったアインシュタインが相対性理論に関する最初の論文を、ドイツの物理雑誌に提出した日だ。なんて話から始めるのは、ロマンチックがすぎるかもしれないけど、そんな日だからか、梅雨のはじめだからか、この日、私の頭にも稲妻が落ちた (「稲妻」という表現は大げさで、本当は頭に白いノイズが走るのを見た、ぐらいが正確な表現)。

最近気がついたけど、私は、人に話をするときに登場人物のキャラ設定とか、雰囲気やディティールを伝えないと気がすまないらしい。これは、小学生の時に司馬遼太郎先生にはまったせいかもしれない。。つまり、私の話は余談が長い。

それから、私は今から自分が「アートマネージャー」や「アート」という言葉を使うことが怖い。私は学芸員資格をもっていないし、座学なんてまともにやってこなかったから、「薄い知識で話しやがって」って笑われるんじゃないかってすごくすごく恐れている。でも、自分の物語を語るのに、そんなの関係ない!って前職でたくさん学んだのだ。あえて書いているというこの状況を、勇気を持って推し進めようと思う。

<私の好きな先輩(登場人物の紹介あるいは起)>

瀬戸内に来て、私には尊敬する先輩が出来た。
元大手企業の人事トップだった彼は、口調も声も表情もいつもちょっと、いやかなり、怖い。喋り方もキツイし、口はへの字だし、耳が時々遠いし、楽しくディスカッションよりも会議をより重厚にする感じの人だ。でも笑うとぐっと愛らしい。人や自然への愛情にあふれる、頑固なじいじという感じ。
「おい、神谷、船舶免許をとれよ!潮を読むんだよ。そうじゃなきゃ、瀬戸内の人や島の文化なんてわかるわけないだろ。それでどうやってアーティストや島の人と話をするんだよ」と、船舶免許を早く取れと言われる。あと「英語頑張れよ」って言われる。。私はこの怖い先輩じいじがすぐに好きになった。

(曰く、瀬戸内海全体の文化やつながりではなく、潮の流れや対岸との関係性がそれぞれの島の文化を育んでいる)

<物語は突然に>

(間が持たないので島の画像など。牛くん)

昨日は、私の恩師の話から始まって、どうしてその一言につながったかは曖昧だけど(日本の学生がプレゼンや資料の書き方、自分の見せ方がうまくないという話だったか?)、ちょっと諦めたように笑いながら、私の目をぐっと見て、先輩じいじがいった。

「なあ、神谷、どうして、アートマネージャーは増えないんだ?優秀な学生だっているのに、何でアートの側で経営の視点があって、アートを社会に実装できるやつがいないんだ?」

世間話をするような気持ちで話していたところに、一瞬、白い何かが、自分の思考を遮断するのを見た。細く光る稲妻みたいなものが「ピシ!」と落ちてきて、私の意識がそれを捉えた(それと目が合った)。

私は何故かすごく動揺していた。その一言が、怒られたわけでもないのに、どうしてお前がやらないんだ?と責められているような気持ちになったからだ。きっと20代の頃の私なら、賃金が安いからとか、実践の場が少ないからとか、そもそも教育の場がとか、その要因を外部に求めて、この言葉自体をまともに受け取らなかっただろうと思う。でも、受け止めてしまっていたのだ。見事に。

「アート」の定義は人それぞれだと思うけど、最近気づいたことは、「アート」っていうのは、作品や人のことではなくて、現状に甘んじることなく問いを立て続ける、世界を俯瞰的に見ようとする、好奇心に目を輝かせ、自らの行動を持って現実を変えようとする、その人の姿勢そのものなんじゃないかということだ(作品の精度はさらにその先にあるものとして)。
起業家でもコミュニティマネージャーでもコロッケ屋さんでも、アートな人はいる。

「アートが人のあり方だとしたら、いわゆる”アート”も”ソーシャル”もそんなに違いはないんじゃないか。溝は深いけど、何かブリッジするような領域があるかもしれない」そう思って東京を飛び出し、アートプロジェクトの仕事をもう一度やろうと思ってここに来たんだった、というのを思い出した。

うっかりまた、自分がアートなおばんざい屋になろうとしていた。まあ、それも最高だからやるけど。

<自分の問いをどう実践にするか> 

最近、ずっと考えていたことがある「どうして自分自身の物語(好奇心や愛やこの世界に自分が見出す大切な問い)を一度もつむぐことなく、価値観が固定的なコミュニティの中で”大人”になってしまう(人がいる)んだろう」ということ。

アートでも音楽でも起業でもデザインでも料理でも研究でも、自分の思い描いたものを形にして、目の前の現実に関わる実践を積むこと、それを人とわかち合うことは豊かに生きる上で大切なことだ。

そして、それが個人レベルで終わらず、新しいつながりを作り出す媒体や事業になったら、小さくても豊かな密度のあるコミュニティがたくさんできたら、もっと世界は面白く変わっていくはずだ。

じゃあ、私は多様な人が出会い、つながるような場作りをするべきだろうか?コワーキング?ゲストハウス?おばんざいや?はたまたワークショップをつくるイベンターになるか?アート系学生のキャリア支援?いろいろ考えたけど、この2ヶ月答えは出ないままだった。

ここでやっと、先輩じいじの問いかけに戻る。

こんな日々を過ごしていた私の上に「なんでアートマネージャーが増えないんだ?」という言葉は、稲妻のように落ちてきたのだ。それを本気で目指したら、アートを現実にインストールできる人(経営視点を持って実装する人)が地域や企業の中に増えるかもしれない。アートマネージャーの仕事の先で、多様な人に出会い、物語を紡ぐ人は増えるのかもしれない。先輩じいじの意図した言葉とは違うかもしれないが、それは、私が求めていた場所と限りなく近いかもしれないと思えた。積極的な誤読が世界を拡張するのだ。

(気づかないだけで、世界が毎秒色を変えていることを、私は君に伝えたい)

<万力の弓矢と末っ子な私と>

目の前がぱっと開けたような気がして、昨日は一瞬とても力強い気持ちになった。でも本当に一瞬でびっくりした話を最後に。。。笑

そうして、自分の今いる環境や状況を見回したら、使えるリソースも巻き込みたい人もたくさんいるんじゃないか!と思えた。そこまで妄想を膨らめたところで、急に暗い気持ちが頭を覆った。。

いままでは、嫌になったら、いつでも走って帰ればいい、大好きな人も家族もみんないるじゃないか!と呑気に構えていたけど、もし自分がこれを本気でやろうとしたら、もうこの場所から逃げ帰る場所をなくすのかもしれない。

ここには仲間も友達もいないのに、本当にここでやるの?!
そんなのさみしい!!!もうみんなに会えないかもしれない!私のことなんて忘れちゃうかもしれない!

そう思ったらぽろぽろ涙が出た。それに、やろうとしていることも大きすぎる気がした。いきなり万力で引かないといけない弓矢を渡されて、使い方がわからなくて途方に暮れている気持ちにもなった。目の前が拓けたら、走り出したくていてもたってもいられない、そんな強い気持ちになると思っていた。
けれど、予想とは裏腹に、こんなに声高に「そんなのやだ!」って叫ぶ自分がいることに驚きだ。(私は何歳になってもこの感情と格闘している)

まだ「アートマネージャー」の定義も自分の中で曖昧なので(でもいわゆる「アート」とか「起業」という言葉とは違うのかもしれないという予感はある)、まずは自分なりの定義を考える事から始めたい。

いつもだったら、無理にわかってくれなくていい!!一人でやるからいい!!といろんなことを一匹狼的に突っ走ってしまう私だけれど、こんな理由で涙が出て、こんな曖昧なままの文章をわざわざ書く気になったのは、この実践は「一人では出来ない」し「時間がかかる」というのを理解しているからなんだと思う。まだ思いつきに近いような衝動だけど、これから形を考えていきたいなと思います。

それで、こんな恥ずかしい文章をあえてさらしたのには、もちろん理由がある!!

ここまでわざわざ私の文章を読んでくれた人にお願いしたいことがあったから。
この灯火のような気持ちが消えてないか、最近どう?ってときどき見回りに来てください。
面白い事例や人がいたら教えてください。何かこの話からインスピレーションが湧くことがあったらどんなことでも聞かせてください。
あと、私が泣きながら走ってきたら優しくしてください。

私が持っている唯一の才能は「タフネス」です。
えいえいおー

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