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大規模火災の跡を歩く〜能登半島地震から1ヶ月

2024年1月1日能登半島地震により発生し、3日以上続いた大規模火災。報道によれば、焼失面積は約4万9千平方メートル(東京ドームより少し広い)、240棟が消失したという。私は、1カ月後の現場を訪れました。

行きたくて行けなかった大火事の現場へ行くと、思ったより冷静に受け止められました。行く前は、現地へ行ったら感情が抑えきれず、立ち直れないかもとしれないと心配していたのです。そのため、小5の子どものトラウマになってはいけないと、近くの駐車場に留まるよう言い聞かせました。

歩いてわかったこと

能登半島地震で起こった大規模火災の跡を、ヘルメットもマスクも無しで歩きました。復興のために支援に来ている公的機関の関係者やカメラマンは怪訝な顔で私を見ています。確かに装備が足りませんでした。軽い気持ちで来る場所ではなかった。しかし、誰かに止められるわけではないので、外周と中を歩いてみる。

百聞は一見にしかずと言いますが、被害の範囲は想像とは違っていました。朝市の場所が全焼したわけではありません。火の勢いの方向の関係で、燃え残っているところもあります。ただ、燃えていなくても応急判定で赤い紙が貼られ、住めない建物ばかりでしたが。

娘が小学校入学時に制服を買ったお店、靴店、美味しいコーヒー豆が買えるところは燃えてはいませんでした。一方、運動会の打ち上げで使っていた焼肉店、テイクアウトを楽しんだピザ店、町の家電店は跡形もなかったです。

何より、この場所で毎朝開かれていた輪島朝市。新名所の永井豪記念館も元には戻りません。娘は輪島らしいものがすべて無くなったと言いました。私はここだけがすべてとは思いませんが、それでも象徴的な地域が突如消失した寂しさは残ります。

耳で聞こえる恐ろしさ

災害で恐ろしいのは音です。地震で地の底から轟音がするのはもちろんなこと、火事でガラスが割れる音は嫌なものです。炎自体の色や爆風にも圧迫されますが、高温に耐えかねてガラスが割れる音が隣町まで聞こえるのは尋常ではない。

1月1日に地震が起こってから、すぐに発生した火災。隣町の避難所から眺めていました。道路が割れマンホールが隆起し、水も確保できないであろう現場。野次馬が駆けつけてもできることは何もありません。避難所に集まる人たちも何日も燃え続ける炎を、ただ呆然と見つめるだけでした。どれだけの犠牲があるか想像もできません。

しかも、発災と同時に通信と電力事情は悪化。外部からの情報はほとんど入ってきません。何が起こっているのか把握できている避難者はいなかったのです。スマホの充電にも事欠くなか、普段なら容易に得られる正確な情報のありがたさが身に染みました。

避難所でのことは以前にも書きました。

毎日よく燃えるものがあるものだと思っていましたが、いよいよガラスが割れる音がすると身の危険を感じ始めます。避難所の噂では河の向こうが燃えているらしいので、私のいる避難所までは燃え移らないでしょう。それでもすぐ隣で起きているかのような物音には冷静ではいられないものです。

そのうち、火の手は弱まりました。鎮火とは言えない状況でした。何日もくすぶり続けていたと言います。1ヶ月以上経って訪れてもまだ焦げ臭い。火の勢いはどれだけだったのでしょう。

営みを再開する動き

無責任なようですが、ここまで廃墟になると立ち直るしかないように思います。この場所では無理でも、他の場所で営業再開を目指しているお店もあるようです。クラウドファンディングや支援金募集の動きも始まっています。

いくらでも時間をかけて佇める場所ですが、いつか心の整理がついたら上を向いて涙を抑え、前を向いて進みたい。そう思いながら歩きました。

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