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「試練は耐えられる者にしか与えられない」は本当か

元ネタは、コリント人への手紙第一10章13節にあるらしい。

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。
神は真実な方ですから、あなたが耐えることのできない試練にあわせません。

話しているうちに我が子の障害の話題になると、たいていの人は驚きの表情を見せるが、なかには冒頭の言葉を言われることもある。
もちろん言った人には悪気はなくて、悲観的にならずに前を向いてほしい、という気持ちに嘘はない善意の人だろう。

ただ、言われた方は正直言って慰めにはならない。
少なくとも私には。どんな言葉をかけられても現実は変わらないし、気が重くなることもある。
どうしてこの人はこんなことを言うのだろう。辛いことはこれだけではないかもしれないのに、簡単に片付けて欲しくない。
悪気がないのに申し訳ないが、単純に「大変だね」と言われた方が気も楽だ。

もし試練が耐えられるなら、フランダースの犬のネロとパトラッシュはなぜ天に召されたのか、そんな訳ないではないか。
と、ずっと思っていた。
しかし、そんな表面だけの意味でこの言葉を発するだろうか。

そもそも神様は、一人一人の人間の苦悩にドラえもんのポケットの秘密道具のような処方箋を与えてくれる訳ではない。相手は個人より大きなものを統治しているのだから。
会社でも一番忙しいのは社長で、ヒラに近づくほど余裕があると、島耕作にも書いてあった。上に立つ人は辛いらしい。

それで、積極的に支援できない場合は、自律的に解決できる方法を用意してくださるのが仏の道、もとい神の常道だと思っている。
モーセが紅海を割った出エジプト記も然り。
つまり「逃げるが勝ち」である。
いや、本当は逃げないのだが、逃げ道を用意してあるのではないか。

与えられた試練に耐えられなくなったら、逃げてもいいし、人に頼っても良い。他力本願に移行しても良いのだ。

なぜ自分だけが何重苦にも晒されているのか、悩めば悩むほどはまる。
しかし、長い時間が解決してくれて、以前ほど気にならなくなることもある。
状況は変わってなくても、いつか時間や立場、環境が救ってくれることがあるのだ。自分の力の及ばないことであがいても仕方がない。

さきほどのコリント人の手紙はこう続いているそうだ。

むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。


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