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【虎に翼】米津玄師さんの「さよーならまたいつか!」を聴いてみた

米津玄師の「さよーならまたいつか!」が耳を離れない。幻想的な歌詞がいろいろと思いを巡らせる。2024年度前期 朝の連続テレビ小説「虎に翼」の主題歌なのはみなさんもご存じだろう。猪爪寅子が過去を振り返って綴った歌詞だと私は思う。後世から見て、さよーならまたいつか!現代に寅子は生きていないが、そう呼びかけたい彼女の思いは残っている。

猪爪寅子は、日本初の弁護士で法曹界の分厚い扉を開けた三淵嘉子さんがモデルとなっている。ドラマでは、女性が勉学に励んだ結果、婚期が遅れることを地獄と表現している。

歌詞は春のシーンから始まり、見上げた先には燕が飛んでいた。待ち望んでいる春とは、寅子が弁護士になる夢だろう。100年後から思えば、当時の寅子には燕が自由に空を飛んでいたように見えた。それは、女性であるがゆえに法曹界での活躍が上手くいかない寅子にとって、憧れの風景だった。もしもわたしに翼があればと歌うゆえんだ。

しかし、現実は厳しくくじけることも。土砂降りでも構わず飛んで行く その力がほしかったは、経験したものでしかわからない心情だろう。口の中に血が滲んで、空に唾を吐くという表現からは、どれほど辛酸をなめたのか想像もできないほど。

歌詞では、100年という長い単位が3回出てくる。100年後のことを知っているのは今の自分だけ。地獄を苦しんでいた過去の自分には想像できないけど、今の自分からさよーならまたいつか!と軽やかに声をかけることで、希望を暗示しているのだろう。自分を見失いそうになっても、生まれた日からわたしでいたんだ今羽を広げ、気儘に飛べるのは、一朝一夕ではない。だからこそ、100年前の自分に開かれた可能性があることを伝えたい。

そして、100年経ったら終わりではない。100年後の自分がなくなった後のことは確かめられないため知らねえけど、大丈夫だ、心配しないで消え失せるなよとエールを送っている。

ところで、この歌詞には、山頭火のしぐるるやしぐるる山へ歩み入るが本歌取りされていると話題になっている。山頭火が修行増として冷たい雨の中を放浪していった様が、寅子にも暗示される場面だ。

見上げた空には何も居なかった ああ居なかった

前例のない道を突き進んだ先で、憧れていた燕には会えなかった。燕は幻想だったのだ。しかし、筆者は、残念さや歯がゆさよりも、絶望しながらも地獄への道を切り開き続けた寅子の希望が垣間見える気がする。

人が宣う地獄の先にこそ わたしは春を見る

行き着いた先は誰も知らない世界だったけど、確かに春はあったのだ。100年前の寅子に、並々ならぬ決意の必要性とひとすじの光明を伝えたかったのだろう。

追記:私が書いた後に、米津玄師さんのインタビュー記事が公開されていますね。

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