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深読(14) - 人間関係について本気出して考えてみた

深読みしたがりによる脳内言語化エッセイです。

上記テキスト(有料)を参考にさせていただきました。「友情」を切り口にした、非常にわかりやすい内容だと思います。

最初に結論から言うと、人間関係の本質は価値の交換だと思う。
そこに血縁の有無が関係するとは限らない。

ただし、あくまでも一般論としてだが、親子関係(養育者と被養育者の関係)には良くも悪くも人間関係の構築において大きなインセンティブがある。

例えば、子どもの乳幼児期の愛くるしさは何ものにも代え難く、親(養育者)として命をかけて守り養育するだけの価値を見出す人は多い。
また、子(被養育者)は一般的に思春期までは親(養育者)を絶対的な存在として、時に甘え、時に従い、時に反抗しながらも、価値観や記憶や財産のよりどころとするだろう。

この関係性に過不足があれば虐待事件や共依存、認知の歪みへと発展し、子(被養育者)の人格形成に悪影響が及ぶ場合がある。そういう意味で、親子関係に限らずあらゆる人間関係を良好なものにしていくためには、パワーバランスの均衡の調整が欠かせない。対等かつ親密な関係の構築には、双方の歩み寄りが必要だ。

ただし、人間は誰彼構わず親密になることはできないものだ。それを実現しようとすれば、おそらく時間も、物理的リソースも、あまりにも足りない。

また、親密で居続けることも非常に困難だ。

少年漫画などでお決まりである「犬猿の仲のライバル同士が最終的に最高の仲間になる」というのは、「距離が近すぎるために普段は衝突しがちだが、いつしか理解し合える瞬間が訪れる」ということである。

「ドラゴンボール」でいえば己の強さを希求する「悟空とベジータ」の関係がそれにあたる。前者は純粋に欲求を満たすため、後者は己のプライドを堅持するためと、動機の違いはあるにせよ、彼らは同類なのだ。「喧嘩するほど仲がいい」と言われるが、その場合の「仲の良さ」はもはや「同質」レベルであり、それゆえに常に反発しあうが、根本的には深く理解し合えるのである。

「がんばれカカロット…おまえがナンバー1だ!!」
(『ドラゴンボール』42巻113p)

物語終盤、プライドの塊だったベジータは、戦士として(また別の場面では一人の父親として)悟空のことを認める発言が増えていく。率直に己の負けを認めることで、反発するのではなく適度な距離感を掴み、真の親密な関係を築くまでに至ったのである。(ただ、ベジータはこの関係性をキープすることに力を割くような男ではないだろうし、悟空のほうはそもそもあまり深く考えていないかもしれない)

話を戻す。
人間関係を価値の交換とするとき、その「価値」は有形無形を問わず、当人たちがそれぞれに思い描くものであり、極めて主観的なものである。逆に言えば、主観の混じらない人間関係は嘘である。

例を挙げよう。

[彼]はイケメンで、資産家の息子で、やさしくて子供好きで料理も上手い。

「客観的」に考えれば、好ましい男性像である。トレンディドラマに理想的な見合い相手として出てくるタイプだ。私個人は実際にこのような人物にお目にかかったことはない。
それでも、[彼]が異性からモテたり、同性と良好な人間関係を築けるかどうかは、客観的な好ましさではなく、ひとえにその[彼]および相手方の主観によって左右される。
[彼]は、理論的には「B専で少しのお金さえあればよくて家事は全部自分でやりたい女性」にはモテないだろうし、表面上良好な付き合いをしている職場や取引先の人間からは内心で「このいけ好かない気障野郎が」と思われているかもしれず、それは各々の主観次第なので、第三者が知る由もないのだ。

逆に、「貧乏で普通の家柄で、粗暴で子供嫌いで家事を一切しないような男性」とくっつく女性もいるかもしれない。

周りから「そんな男はやめておけ」と言われるような要因を多数備えた相手でも、もしかしたら付き合っている女性はそれを補ってあまりある「価値」に気づいているのかもしれず、あるいは男性のろくでもなさを女性が理解していないのかもしれず、あるいは女性は男性から本気の愛(あるいは束縛)を受けているかもしれない。

何にしても、二人のうちどちらかが「価値の交換」に耐えられなくなる瞬間までは、別れることはないだろう。言い換えれば、相手に価値を感じなくなった時が、(主観的な)恋の終焉である。

恋愛沙汰に限って言えば、浮気、暴力、失業、激務、家庭の事情…ありとあらゆる理由で、人間の主観は揺れ動く。というか、もはや心変わりに具体的な理由などないのかもしれず、最も説得力のある理由があるとすれば「他に好きな人ができた」である。

以上、心理学(交流分析)における「時間の構造化」の理論をベースに書いてみました。


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