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呪いを解く言葉

お前はダメなんだ、お前はダメなんだと言ってきた彼は、私という鏡に向かって自戒の言葉を投げかけていたかもしれないし、私の存在によって己の信念が揺らいでいたかもしれない。

いずれにせよ、その手の言葉を人にぶつける行為は呪詛以外の何物でもなくて、それを軽くあしらえればいいのだが、肉体や精神に負荷がかかって弱っていると、呪いにかかってしまう。

つまり、投げかけられた呪詛の言葉を、自分自身で反芻してしまう。

自分で自分の首を絞めてまで呪いに迎合していると、自分軸を見失って他者の意見に振り回される癖ができる。そういう状態の時に「お前には自分の意見というものがないのか」とか言われると、もう弱り目に祟り目である。

叱責を受けた時「はいはい草」とか「うるせえぶち●すぞ」くらい心の中で唱えられれば、ガス抜きができているという意味でまだ健全なのだが、呪いにかかっているとそもそもガス抜きという発想からできなくなる。結果、負のスパイラルに陥る。

「鬱は心の風邪」と言われる。誰でも罹り得るとか万病のもとだという例えなのはわかるが、残念ながら決定的な違いがある。

精神疾患は、風邪よりもはるかに治療に時間がかかるのだ。

喉元過ぎれば何とやらというように、風邪が治ったら具合が悪かった時の感覚は忘れるものだが、精神疾患の症状は何らかのきっかけによって突如再発することがある。原因は風邪のウイルスでも細菌でもなく、一個体の脳内にしかない。向精神薬による治療は所詮、対症療法だ。

カウンセラーはひたすら自問自答させる。患者自身が脳の使い方を変えられるように誘導する。それは脳科学や心理療法や催眠療法などに裏付けられた、呪詛を中和する破邪の言葉である。それを反芻することで脳機能を回復させる手段と言えるのかもしれない。

調べてみたら「呪詛」の対義語は「祝福」なんだそうだ。

呪詛は前途を閉ざすものだが、祝福は前途の幸福を祈る行為である。

「お前はダメなんだ」的な呪詛も「あなたは素晴らしい」的な祝福も、誰かの言葉を反芻している限りは不自由なもので、守破離の「守」の段階である。いずれはオリジナルの言葉で自分自身の幸せを祈れるようになろう。過去にかけられた呪いが何であれ、それを解くための言葉で一歩を踏み出そう。

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