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自己肯定感とか表現とか

自己肯定感という言葉にゾワゾワする。いわゆる、ゾワる。ゾワりを感じるワードというものが世の中にはいくつかあって、たとえば「ウザい」なんかがそうだ。はじめにこの言葉が流行ったとき、「なんて雑な言葉だ」と思った。たけど、そのころの職場の同僚が「いい言葉だ」と言っていた。そのときははてな?と思った。彼がどういう文脈で称賛していたのか、もう覚えていないのだけれど、あとから考えてみて、「うざったい」の互換性と濃縮さ加減、音の響きの濁り、安易に略すことの軽薄さ……たしかに「ウザい」を言葉そのものが体現している。

「自己肯定感」に対するニュアンスは少し違うけれど、「自己」「肯定」そして「感」覚という、なんだかココロの柔らかいところにするりと潜り込んでこまかい傷をつけていきそうなモノの融合体。これってパワーワードというやつだろうか。語感の陰険さ……どうにもまとわりつくような言葉の粘着度。だけど嫌悪感を想起させるという意味では、強い。



とある劇作家がポッドキャストを始めていた。

年度が変わり、いつも聞いていたラジオ局の編成が変わる。それに伴いポッドキャストの配信にも力を入れるらしく、私も新番組を聴いてみようと、アプリを使い始めた。

彼女のつくる舞台をひとつしか見たことがない。もともと多作でないようだし、時間と場所の問題で噛み合わなかった。

私が見た唯一のものを、それがすごくいい作品だとは正直思わなかった。話の筋もぼんやりとしか覚えていない。だだ、「もう一度見たい舞台はなに?」と聞かれたときに、1番か2番にその作品を挙げるだろう。まぶたに残ってる。なにが響いたのか……でも、きっと、そう思う人は私以外にもいる。そう思う。

どうやらいまは気が向いたときに演劇をやるスタイルらしく、自身で「趣味」と言う単語を使っていた。すこし残念に思えた。本人の事情と心持ちがあるはずだから、おいそれと「頑張って」とかは言えないし、リプとかも送れない(そもそもただの観客)。

だけど、彼女をどう位置づけたらいいのだろう。クリエイター? 作り手であることをやめているわけでもないし、ただそれを職となしてはいない。一般人?(とて境界線はなんなのか)だとして、でも私は作り手への憧れがあって、その配信を聴いた。

そして、なぜ配信を始めたのだろうか。発信する必要性は? 気力はどうして? 告知? それに、一番になんの意味をなすのか……あるいは本人には意味があるのか。



私は、自分の発することがうしろめたい。絵もそうだし、そのほかに作ったものも、文も。それを受け止めてくださった人へは感謝しかないのだけど、正直、お目汚しすみませんという気持ちがいっぱい。

これは僻みだ。自身のなさ。なんだろう、自身から生みでたものを、すなおに他者へ発信ができることは。自己肯定感のなせるワザだろうかな……とか考えてしまう。私には、卑屈、恐怖、羞恥で踏み出しがたい。それができるチカラ……私には足らないと思わせる、自己肯定感ってやつなんだろうか。いや。でも。偏見。


言葉を話すのがとても不自由で、その自分と長く付き合ってきたけど、もういい加減しんどいな、と思うことが多くなった。若さがなくなるとなにごとにも耐久が落ちる。メンタル系のカウンセリングで、文を書くことで考えを整理する、みたいなことをやったりすると聞いた。発散しないのはよくないとは思う。ガス抜きと言ってしまうと軽薄に思えるけど。とはいえ、話す相手もいないし、話すには恥ずかしい。だだ、このままにしておいて、一番ニオイのキツイものが意図せず漏れ出してしまいそう。そのほうが多分恥ずかしい。焦燥に追われて、とりあえずは、だだ漏れてしまわないよう、すこしずつ脇のほうから流しておこうかと思う。

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