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【選挙ウォッチャー】 福生市議選2019・公立福生病院の殺人的判断。

かつてテレビ番組の中で「透析患者は殺せ」と発言し、フリーアナウンサーの長谷川豊さんが業界を干されました。人間誰しも間違えることはある。しっかり反省して出直すというのであれば、どこかに応援してくれた人はいたかもしれません。ところが、長谷川豊さんは過去の失言をネタにすることはあっても、まったく反省している様子は見られず、テレビやラジオの業界に戻ることはありませんでした。ところが、一昨年の衆院選では日本維新の会の推薦を受けて、千葉1区から立候補。アナウンサーとしては「世に出せない」と言われている男が、国会議員に立候補する際には「推薦」を受けているのです。さすがに落選したものの、長谷川豊さんは今でも国会議員を目指しているとの情報があり、またしても日本維新の会から推薦をもらうのではないかと言われています。透析患者は自らの不摂生な生活が原因でそうなったのだから、税金をかけて長生きするのは無駄である。平然とそう言い放つ人間が普通に生きていて、あげく国会議員になろうと言った時には推薦する政党がある日本の現実。だからでしょうか、「透析患者は殺せ」をそのまんま実行する病院が存在することがわかりました。しかも、それは私立病院ではなく「公立病院」だったのです。


■ 公立福生病院で起こっていたこと

「殺人」と言ってもいいレベルの酷い診療が行われていたのは、東京都福生市にある「公立福生病院」です。この病院は、福生市、羽村市、瑞穂町でつくる「福生病院組合」が運営している公立の病院であり、院内に腎臓病総合医療センターがあります。ここではたくさんの患者が人工透析を受けているのですが、当時44歳の女性患者が医師から透析の中止を選択肢として提示され、患者は「透析しない」を選択。当然、病状は著しく悪化し、亡くなる直前になって透析の再開を希望するも、その頃には手遅れになっていて、亡くなってしまったのです。この「事故」と呼ぶには軽すぎる、限りなく「事件」に近い問題が起こったのには、いくつか重大な背景があります。

まず、女性患者は人工透析を受けるための「シャント」と呼ばれる人工透析用の血液の出入口が閉塞してしまい、普通の病院では安全に人工透析が受けられないことから、より高度な医療が可能な公立福生病院の腎臓病総合医療センターを紹介され、医師から「人工透析の中止」を選択肢として出されているのです。シャントが閉塞してしまった場合、首のあたりから人工透析をする方法があり、一般的な腕のシャントよりは面倒臭いものの、方法がないわけではありませんでした。「面倒臭いぐらいなら、いっそ死んでしまった方がいい」と考えてしまう患者もいるかもしれないのですが、一時の気の迷いで「死」を選択してしまった場合、あとで後悔して生きたいと思っても手遅れになってしまう可能性がある。いくら事前に説明をしたと言っても、引き返すにはどれだけの時間が必要なのかといった丁寧な説明をしていたのかどうかは微妙です。さらに、この病院ではこれまでに人工透析の中止を提案した末に死亡した患者が20人以上いたのです。つまり、常日頃から実質的に「死にますか?」という提案をしていたということになります。人工透析は大変ツラいものだと聞いています。1日おきに5時間も人工透析を受けなければならないので、遠くに出かけることもままならず、精神的に追い詰められてしまう患者も少なくないそうです。そんな人に「死にますか?」という質問をしたら、思わず「そろそろいいかな」と言ってしまう人がいても不思議ではありません。しかし、それは鬱病の人に「死にますか?」と言っているようなもので、医師が「死」を選択肢のテーブルに乗せること自体、医師の使命に反していると言えます。


■ 死を望む人に選択肢を与えるべきか

今回の事件をキッカケに、人々は「死を望む人には死を提供するべきか」ということを考えさせられることになりました。病院が「死にますか?」なんて提案するのはおかしいという人がいる一方で、死にたい人が死ねる自由を認めるべきだという人たちもいます。不思議なことに、こうした発信をツイートする人たちの多くがアニメアイコンのネトウヨなのですが、死を望む人に病院が「死」を提供するべきでしょうか。海外では日本よりずっと安楽死について考えられていて、安楽死を認めている国や地域も存在します。ただし、死を望めば誰でも死ねるわけではありません。ここで安楽死が認められるのは、もともと余命が幾ばくしかなく、薬などの副作用に苦しんでいたりして、生きていることが苦痛である人たち。どうせあと1ヶ月しか生きられないのに、その1ヶ月を苦しみながら死にたくないという人たちのために、穏やかに死ねる「安楽死」という選択が用意されていたりするのです。自然の摂理には反しているので、これさえ反対だという人もたくさんいると思いますが、こうした安楽死にはまだ一定の理解はできるかもしれません。こうした安楽死は自殺の幇助にならないように、いくつもルールとカウンセリングが用意されており、完全にクリアした人間でなければ処置を受けられないことになっています。一方、福生病院で行われていた「死の選択」は、けっして安楽死ではありません。人工透析をすればまだまだ生きられる人たちに対し、「死にますか?」という選択を迫っているのです。これでは「殺人」と同じです。世の中にはツラいことがたくさんあります。病気でツラいこともあるかもしれませんが、精神的に追い詰められていてツラいこともあるでしょう。時には「死にたい」と思うようなことに出くわすかもしれません。しかし、医師を含め、我々が考えなければならないことは、どうすれば人生が楽しくなるかということです。人工透析で苦しんでいる患者に「死」を提案するのではなく、どうすれば「価値のある生」を提案できるか。「自分なんか死んでもいいんだ」という人たちに対して、どうすれば死なずに人生をクオリティーを高められるかを考えるべきなのです。こうした医師の責務を放棄し、「死にたい人は死ねばいい」という考え方をする倫理観の人間が医師をしていて大丈夫なのでしょうか。人の命を救うために全力を尽くしてくれる医師はたくさんいると思いますが、こうした一部の医師のせいで、安心して医療を受けられない日本の現実があるのです。


■ 福生病院の院長や医師の態度

日本透析医学界は2014年に提言をまとめており、透析を中止、もしくは透析しないことを検討できるのは、患者の全身状態が極めて悪いか、透析によって患者の生命を損なう危険性が高い場合に限るとしています。つまり、よっぽどのことがない限り、透析の中止や透析をしないという選択肢を提示することはないというのがガイドラインなのです。東京都は福生病院に第三者も入る倫理委員会による助言が望ましいと口頭で指導したそうですが、福生病院側は「ガイドラインが厳しすぎる」としていて、まったく反省する様子がないどころか、学会の提言に逸脱しても患者が望めば透析を中止しても良いという姿勢を崩していません。今のままでいくと、これからも患者が人工透析をせず、自ら死を選ぶ可能性があるということになります。これはとても恐ろしいことだと思います。福生病院の医師たちは「本人が死にたいなら死ねばいい」という考えのもと、命を守ろうとせず、死を選ぼうとする人を説得するでもなく、死ぬことを手伝っています。本当にこれでいいのでしょうか。もしかすると昨今の日本人は「命の価値」がどんどん低く見積もられるようになっているのではないかと思わずにはいられません。


■ 日本人がどんどんおかしくなっている

先日は、高浜町議で「狩猟ガール」の女性が、腹を引き裂いた熊の横でおちゃらけていたり、全身の毛皮が剥がされ、肉になった状態の鹿の横で変顔をキメたりと、「命に対する尊厳はないのか」ということで炎上しましたが、いよいよ動物のみならず、人間に対する命の尊厳までもが薄れてきているように感じます。日本人が凶悪犯罪を起こすことは極めて珍しいと思っていましたが、つい最近、元自衛官の若い男性たちがカンボジアに渡り、車を強奪するために40歳のタクシー運転手を殺害。幼い子供を育てるために銀行に借金をして車を買い、タクシー運転手として一生懸命生計を立てていた善良な市民が、「金が欲しい」という日本人のあまりに身勝手な動機によって殺されてしまったのです。日本人がこんな事件を起こすことなんて、ちょっと昔までは考えられなかったと思いますが、あっさりと人を殺してしまうほどに「命」の価値が低く見積もられてしまっているのです。先日も、ニュージーランドでイスラム教のモスクが襲われるヘイトクライムがあり、これもまた命の価値が低く見積もられた末に起こった凶悪事件ですが、治安の良い日本ではこのようなことが起こっていないかと言うと、実は、相模原市の障害者施設「やまゆり園」で起こったことは、まさにヘイトクライムであり、障害者なんて生きていても価値がないと言っての大量無差別殺人でした。あまりに凄惨なことだったので、あまり話題にはなりませんが、国会議員になろうという長谷川豊さんと、やまゆり園を襲った犯人と、福生病院の医師たちの根底にあるものは「命の価値を見誤っていること」です。どんな人にも命があって、その人には大切な家庭があるかもしれない。カンボジアで殺されたタクシー運転手にも、幼い子供がいて、家族はチャーハン屋をやって細々と生活をしていたといいます。日本のように遺族年金のような制度がないので、一家の大黒柱を失い、生活はますます困窮するばかり。そういう想像ができなくなってしまった愚かな日本人が、どうやら増えていて、しまいには人の命を奪うまでになっている。どうしてこんなことになってしまっているのか、僕たちはその根底にあるものを考えなければなりません。


■ 4月21日には福生市議選がある

福生市では4月21日の統一地方選で福生市議選が行われます。僕は東京23区内の区長選や区議選を追いかけているため、福生市議選を取材することはできないのですが、これは福生市も関係する「公立」の病院であり、市民の命がかかっています。病院と行政は密接に関係しています。市民の命を守るために消防車や救急車を出動させるのは行政の役目ですし、町に病院を建てるのも行政の仕事だったりします。自分の町に出産できる産婦人科のある病院を作ることを公約に掲げて立候補する人もいますから、市民の命を守るために働くのは政治家の仕事です。公立であるにもかかわらず、この病院が野放しになるようなことがあるとすれば、それは市長や市議会議員がろくすっぽ仕事をしていないということになります。


■ 選挙ウォッチャーの分析&考察

「人生楽ありゃ苦もあるさ」とは水戸黄門のテーマソングですが、人生、嬉しくて泣くほどの幸せな瞬間もあれば、死んでしまいたくもなるツラい時だってあると思います。もしもツラい時に乗り切る手段を教えてくれる医師がいれば、なにも「死」を選択することはなかったと思うのですが、「どうする?死ぬ?」と聞いてくる医師がいる現実。そして、あの狩猟ガールのまわりにいる人たちのリアクションを見れば分かると思いますが、自分たちの主張は意地でも曲げない。命よりも自分たちのプライドの方がプライオリティーが高いという摩訶不思議な現象が起こっているのです。時代が違えばSNSに乗せることもなく、せいぜい現像した写真を仲間内に見せるぐらいなものだったでしょう。しかし、時代は変わって、命の尊厳を一切考えない人たちが堂々と発信をして、それに対して多くの人が黙っている。そうすると、世の中は少しずつ命の尊厳を大事にしようという人が少なくなっていって、いつしか命を守らないことが当たり前になってしまう。本当はこんなSNSの時代だからこそ「うるさい」と言われても黙っちゃいけないのです。自分の意見を言うと叩かれるってな時代になってまいりましたが、「命を大切にしよう」という話が「悪」にされるのはおかしいです。せっかくですから、この騒動を機に、福生病院の判断は本当に正しいのかどうかを考えてみたいと思います。これもまた倫理の問題です。医師がまだまだ生きられる人に対して「死」を提案していいのかどうか。この国から急速に「倫理」がなくなっていることが気になります。そして、これもまた皆さん気付いていないかもしれませんが、「政治」の話なのです。[了]

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