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結局は、執着だったんだ

最近、ふと自分のことでびっくりしたことがある。

あんなに欲しかったものや、あんなに好きだった人のことが、いまはまったくもってフラットな気持ちでいる、ということ。

・・・たとえば、車。

お店やカタログ、まちで見かけるたびに、お金をためて絶対買うぞ!!と思っていたもの。働き始めた頃、「Beetle」という車がものすごく欲しかった。

その車に乗る自分を想像したり、どこに行こうか考えたりしていた。それだけで楽しかったし、頑張ろうと思えた。

・・・たとえば、壊れそうなくらい好きになった人。

その人がいなくなってしまったら、自分の世界が終わってしまうかのようだった。その恋が終わったときには、ご飯を食べることすらできなかったし、思い出すたびめそめそしていた。(この件に関しては、自分のことながら「しっかりしろ」と言いたい。)

結局は、執着だったんだろうなと思う。自分で自分のことを満たせなかったかつての私は、満たされない自分を他の何かで補填しようとか、他の何かに依存しようとしていたにすぎない。

それは、いっとき満たされるだけで、いつの間にか「もっともっと」と際限がなくなるもの。

特に恋愛に関しては、足りない何かを自分の力でなんとかするのではなく、他の誰かに依存して、「あなたがなんとかしてよ」「幸せにしてね、私のこと」というのは、なんとおこがましいことだと反省する。何より相手に失礼だ。

他力で幸せになろうとするのは、自分が自分の人生に責任を持っていなかったということ。自分と向き合っていなかったということ。

自分と向き合って、自分がどうしたいのか、何をしたいのか、腹をくくって「よし、自分の人生、自分で引き受けた!自分で考えて自分で決めよう!まずは自分でなんとかしてみよう!」と思えないと、いつまでも外的なもので、足りないものを埋めようとしてしまう。

しかし、自分の内側から自分を満たさないといつまでたっても状況は改善しない。大事なことは、自分で自分を満たす努力をすること。自分を大事にしてあげること。

それを繰り返すと、実はもうとっくの昔に「満たされていた」ということに気がつく。あぁ、そのままで良かったんだって思う。そのことに気がついただけでも、恋愛で人生躓いた(?)甲斐がある。

そしてもうひとつ。あの頃の恋愛がうまくいかなくて良かった、と最近密かに思っている。未熟すぎる自分と一緒になっても、私は相手の負担になってしまったと思う。一緒に幸せを築くことはできなかったんじゃないかな。(もちろん、一緒に成長していく、ということもあったのかもしれないけれど)

自分の足で立てるから、相手になにかあっても支えられる。そのときの状況に応じて、お互いを支えあえる。対等でいられる。あの頃の「依存体質な重い女」の自分では無理だったろうな。

それに、うまくいかなかったからこそ、出会えた人がいる。開いた扉がある。そうやって今の私にたどりついた。これは私にはとても大きなことだ。

なんだかんだで、いまここにいる私を、私はとても気に入っている。

恋が終わって泣いていた過去の私に「おめでとう。この終わりは、新しい世界につながっているよ」と言ったら、あの頃の私は、びっくりするだろうか。でも、あの涙があったからこそ、執着していたことを手放せたからこそ、こんなにも自由で身軽で、ありたい自分でいられるのだ。

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