見出し画像

世界の 秋は金木犀の匂い があるところ

廊下に出ると、ひやっとした冷たい空気と一緒に、甘さがふわっと香った。甘さと、木から揮発される何か良さそうなものが混ざった匂いだ。吸うと身体がなかからまるごと洗われる気がして、何度か深く息をした。

廊下は扉を開けっぱなしの洗面所と繋がっていて、匂いはそこの、雨の日以外は開けている窓からきていた。住んでいる集合住宅の後ろには、木の生い茂った広い庭のあるお屋敷があって、雨上がりや早朝など、空気中にたくさんの水蒸気があるときは特に、そこから気持ちの良い匂いが流れ込んでくる。

甘い匂いは金木犀だよなあ、と屋敷の横を通る時に探してみたけれど、見当たらない。どこにあるんだろう。つめたくて気持ちがいい、と思うのと、甘い匂いがする、と思うのは毎年だいたい同時に起きるから、金木犀は気温がある一定のところまで下がると花が咲くのかなと思う。

匂いのもとをつきとめたいと数日過ごしたのち、子どもを保育園に迎えに行った帰り道、ふと顔を上げたら、洗面所と反対側のベランダに面した方の、ずうっと離れた家の庭にオレンジ色の花がみえた。

画像1

良い匂いがするねえ。これは、金木犀っていう花の匂いなんだよ。秋になると花が咲くんだよ。

子どもと手を繋いで、話しかけながら歩く。

かーしゅ。ぶーぶー。でんしゃ。

カラス。車。電車。

けっこう言葉を覚えてきた娘が、目に入ったものを言う。

最近はこちらが言ったものをそのまま真似できるので、たいふうとか、くうきとか、熟語も発言できるけれど、きんもくせい、とは言わない。わたしが感じているこの秋の気持ち良い空気と甘い匂いについて、特に関心はなさそうだ。

1歳7ヶ月の子どもの視力は大人と同じくらいになっているという。というか、子どもが生まれるまで知らなかったけれど、生まれたての子どもの目はほとんど見えない。そこから日々色々なものを見ることで、視覚が発達していく。

じゃあ匂いはどうなんだろう。生まれてすぐの赤ちゃんは、匂いで母親を判別できるらしい。五感のうち、嗅覚と触覚は生存に関わる直接的なものとして生まれた時から発達していて、視覚と聴覚は入ってくる情報を処理できるようになるまで時間がかかる、味覚も生まれつきのものは少なくて段々と発達していくものだという。

でも考えてみると嗅覚って、娘がいまどういう状態にあるのか、一番わからない。

触覚は、熱い食べ物に触れると泣いて嫌がったり、冷たい床を好んだりするところから、何が心地よくて何がよくないのかというのがなんとなくわかる。

視覚は、絵本を読んでいてすごく小さく描かれている、わたしが全く気に留めてなかった車を「ブーブー」と言ったり、歩いていてわたしの視界にはまだ入っていなかった遠くの犬を「ワンワン」と言ったりするところから、ずいぶんいろいろ見えるようになってきて、よく見ているなあとわかる。

ダックスフントもポメラニアンも豆柴もコーギーもトイプードルもみんな「ワンワン」と呼びながらすれ違う娘をみると、凄いなと、なんで全然違うのにぜんぶ犬だってわかるのと、何の共通性を見出してるのと、普段はわたしたちは当たり前にやってることなんだけど、脳の不思議に触れる気持ちになる。猫はニャンニャン、象はゾウ、豚はブーと呼ぶので、動物なら「ワンワン」というわけじゃないのだ。しかしアシカの顔写真やぬいぐるみのクマは「ワンワン」と言う。たしかに区別は難しい。似ている。

聴覚は、こちらの言ってることはほとんど伝わっていることが行動からわかるし、姿がみえなくてもカラスが鳴けば「かーしゅ」、ご飯を食べている途中でもファーン・ガタンゴトンと音がすれば「でんしゃ」、玄関の開く音には「パパ!」と言うので、聞こえているし、環境の音をよく聴いているなあと思う。

味覚も、ばくばく食べるものとそうでないものがあるので、発達してきているのだろう。少しでも固くなったパンは食べ進まないけど、フレンチトーストにすると食べるなど、手強くなってきたところもある。

でも匂いって、わからない。今のところ、匂いだけでそれと嗅ぎつけて何か行動した、という場面が思い浮かばない。「あつい」とは言うけれど、「臭い」とは言わない。「いい匂い」とも。娘は食べたばっかりだからなあと、こっそりミカンを食べても気づかれない。柑橘の匂いは部屋に充満していただろうに。うんちをして「うんち」と教えてくれることはあるけど、不快そうなのはお尻のほうで、臭いから嫌と思っている素振りはみたことがない。他の子はもっと鼻を利かせているんだろうか。

娘は金木犀の匂いをどう感じるのかなあと思って、休みの日に行った公園で、末枝をちょっと拝借して、手に持たせてみた。緑色の葉っぱがついた、手に持ちやすい枝を娘はとても気に入ったのだが、花の匂いを嗅がせようと顔に近づけると嫌がった。

小さなオレンジ色の花びらを指に持って、わたしにくれようとしたり、自分の口に入れるふりをしてみせたりはしたけれど、「嗅ぐ」ということは全くしない。いい匂いなんだよと言っても、耳に入らない。匂いが嫌いとかでもなくて、ただ興味がないようだ。

嗅覚自体は生まれつき発達しているのだとしても、この世にある様々な匂いを判別したり、花の匂いをいいなあと思ったりするのは、経験と記憶の積み重ねが必要なことなのか。さらに匂いに季節を感じるとなれば、あと数年は生きないと無理よな、とは思う。

何を感じて、何を感じないか、感性には個人差も強く出る。わたしはここ2週間くらいで、匂いの強さで金木犀と自分の距離感が掴めるようになってきた。歩いていて、これは近いなと、あるなと思ってぐるり見渡すと、路地の奥に、斜め後ろの家の庭に、金木犀がある。筒型だったり、放射型だったり、もっさりした大木だったり、けっこういろいろな形をしている。

でも夫はそのことを特に気に留めていない。花の匂いをいいなあと思うことはあっても、金木犀の匂いは知らないという。私たちが生きているのは同じ場だけれど、そのものに気づいているかどうか、意識しているかどうかで、そこに存在するものは変わる。彼の主観世界には金木犀が存在していない、とまでは言えないけれど、その存在感はきわめて薄い。

もちろん夫の世界にあってわたしのほうにないものもたくさんある。たとえばわたしはサッカーに興味がないので、夫がどんなに忙しくてもチェックしているヨーロッパ各国リーグのサッカー選手の名前をいっこうに覚えられない。そういうものがあるというのは夫の影響でぼんやり認識しているけれど、すごく豊かだろうサッカーに関するあれこれは、わたしの世界には存在しない。

W杯準々決勝の平均視聴率が4割を超えたというラグビーも同様で、観れば面白いとは思うのだが、特に観ようという気が起きない。オリンピックもなんでそれがそんなに盛り上がることなのかわからない。

なんてこと!スポーツ観戦のない人生なんて耐えられない、という人はたくさんいるだろう。

でもわたしは、空気が良い匂いがしていることをすごく嬉しく、心地よく感じて、それを味わうことで、とても歓ばしい気持ちになれる。生きている歓びってこういうところにあるとすら思える。

ひとまずわたしは、娘に金木犀のある世界を贈りたい。

今興味がないのは、まだ経験値が少ないからとして、これから初春の水仙、春の沈丁花、初夏のくちなし、夏の稲穂と、ことあるごとに植物や季節の匂いを伝えていこうと思う。一緒に今まで知らなかった匂いも、見つけていきたい。それでも関心を持たなければ、それはそれで全然いい。



【連載】子どものつむじは甘い匂い − 太平洋側育ちの日本海側子育て記 −
抱っこをしたり、着替えをさせたり、歯を磨いたり。小さい子どもの頭はよくわたしの鼻の下にあって、それが発する匂いは、なんとなく甘い。
富山で1歳女児を育児中の湘南出身ライターが綴る暮らしと子育ての話。
前回の記事:赤ちゃんのうんちはヨーグルトの匂い

【著者】籔谷智恵 / www.chieyabutani.com
神奈川県藤沢市生まれ。大学卒業後、茨城県の重要無形文化財指定織物「結城紬」産地で企画やブランディングの仕事に約10年携わる。結婚後北海道へ移住、そして出産とともに富山へ移住。地場産業などの分野で文筆業に従事しつつ、人と自然の関係について思い巡らし描き出していくことが、大きな目的。

続きが気になる方は

OKOPEOPLEとお香の定期便OKOLIFEを運営するOKOCROSSINGでは、OKOPEOPLEの最新記事やイベント情報などを定期的にニュースレターでお届けしています。記事の続編もニュースレターでお知らせいたしますので、以下のフォームからご登録ください。

編集協力:OKOPEOPLE編集部

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?