幻は年を取らない

ある晩、歌人の木下侑介さんから「“この世に存在しない歌集”の展示を、期間限定で行います」というメールがきた。聞けば聞くほど面白そうだったので、展示に先がけてその(まだ存在しない)歌集の書評を書かせていただいた。

木下さんの短歌は『食器と食パンとペン』(安福望)や『短歌ください』(穂村弘)などに載っていて、前からすごく好きだった。「夏」が印象的に出てくる歌を詠む方なので夏が好きなんだろうと思っていたが、木下さんからのメールには「展示は冬に行う予定です。僕は冬が好きなので」とあってちょっと笑ってしまった。冬派なんですね。

そういうわけで(?)、“この世に存在しない歌集”の書評をここにも載せる。文章の中でも何首か引用させていただいたので、木下さんの歌を見たことがない人も、これをためし読み的な気持ちで読んでくださったら嬉しいなと思う。存在しない歌集のたしかに存在する展示、いまから楽しみです。


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子供のころ、死ぬのが怖くてリビングの床で泣いたことがある。

なにが引き金になったのかは分からないが、テレビの音をかき消すほどの大声で、死にたくない、死にたくないと泣き喚いたのを覚えている。それだけ本気で死にたくなさをアピールすれば、神様が「じゃあ今回は死なないようにしてやろう」と、裏メニューのなかから特別なボタンを選んで押してくれるような気がしていた。


しかし、夕食の支度をしていた母親が台所から出てきて「馬鹿、人はみんな死ぬんだよ」と大の字になって暴れる私を見下ろしながら言ったとき、涙がぴたりと止まった。その夜、冷たいフローリングに顔の半分を押しつけながら生まれて初めて感じた「死」の手ざわりを、20年経った今でも確かに覚えている。


生きていると、嫌でもときどき死を意識する。そのきっかけは身近な人や有名なスターの急逝、悲惨な事件のニュースなど、他人の死を目の当たりにした瞬間であることが多いけれど、人はまれに生の絶頂にあっても死の匂いを嗅ぎとってしまう。木下さんは、きらめく生のなかに一瞬だけ立ち現れる「死」の予感を決して逃さない人だ。

完璧な死体と夏が誤解する程僕たちは抱き合っていた
目を閉じた人から順に夏になる光の中で君に出会った

どちらも、くらくらするほど眩しい歌だ。「僕たち」は愛し合う喜びを身体化した結果「死体」のようになってしまうし、「君」に出会える「夏」には、目を閉じることでしか近づけない。目を閉じながら見ている光というのはすなわち、死に限りなく近い夢や幻のようなものだろう。


鍵盤を一度に全部押す(きっと、誰にでも出来る予行演習)
死ぬ 夢と分かってホッとした朝の何日か後に確実に死ぬ

生の絶頂にあればあるほど強く死を意識してしまう人は、日々の暮らしのなかでも折に触れて小さな死を疑似体験している。「鍵盤を一度に全部押す」という儀式めいた予行演習は(なんの根拠もないけれど)死を想起させるし、眠ることはそれ自体が死の予行演習のようなものだ。

しかし、木下さんの持つ強い「死」の感覚は、きらめく生の上に一切不吉な影を落とさない。それは、人生にごく稀に訪れる奇跡のような一瞬が、「死」をも凌駕するものだということを知っているからだろう。

いっせいに飛び立った鳥あの夏の君が走っていったんだろう
目覚めたら君が住んでる街にいる夜行バスって瞬きみたい

その奇跡のような一瞬を生み出す鍵は、いつだって「君」(=好きな人)だ。「あの夏の君」は、いつか詠み手や「君」自身が死のうとも、同じ場所でいっせいに鳥を飛び立たせる力を持っている。そして、「君が住んでる街」に行くとなると、世界は瞼の下で容易く省略されてしまう。「君」の前では、時間や空間は一切の効力を持たなくなる。それは言い換えれば、永遠ということなのだ。

幻は年を取らない 目を開けて眠るウサギが月を見ている

「目を開けて眠るウサギ」は、まるで木下さん自身のようだと思う。彼が見る月は昼夜を問わずいつでも煌々としているし、その月はきっと、年を取らなかった「幻」たちの光で奇跡のように美しいのだろう。

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