「男であることをやめたい」と友だちは言う

最近、周りの男友だちが「男であることをやめたい」とよく言う。
そこからもっと進んで、自分の性別がめちゃくちゃムカつくと言う人や、常に漠然とした加害者意識を持っている、という人もいる。
そういうことを言う友だちはみんな、私にとっては、やさしくて内省的な人たちに見える。


「神さまのご加護」にされてた問題

仮想敵をあえてつくってそれを叩くみたいな抽象的な話はしたくないので、自分自身と周りの話をする。

幼稚園の年長さんだったころ、受け持ちの先生にとつぜん呼び出されて、ひとりだけで聖堂に行ったことがある。
カトリックの幼稚園だったので、受け持ちの先生も校長先生もシスターだった。恐るおそる聖堂に入っていくと、私のことを呼んだ先生はひとりでマリアさまの像に向かってお祈りをしていて、振り向いて言った。

「シホちゃんが〇〇小学校に合格したというお知らせを受けました。いっしょに神さまにお祈りしましょう」

私はアッ受かったんだやったーと思った直後、よくわからないままでその場にひざまずかされ、シスターと一緒に神さまにお祈りをした。
「神さまのご加護があったから合格したのよ」とシスターが何度も言うので、いやがんばって公文通ってたんですとか家でも面接の練習いっぱいしたんですとか、そういう気持ちをぐっと飲み込んだ記憶がある。

5歳のときのことなんか覚えてるわけないだろって言われそうだけど、悔しかったからずっと覚えていたのだ、本当に。

それから高校までずっとキリスト教系の学校だったので、「自分ががんばったことを神さまのご加護にされる問題」には、以後も何度か遭遇した。
2か月かけて書いた作文が載っている小6の卒業文集も、担任の先生からのコメントは「神さまにいただいた言葉の力、これからも大切にしましょうね」だったし、正直に言っちゃえば、私はそういういろいろにぶつかるたびにクソッと思った。

だってまず、一度でもいいから「よくがんばったね」と言われたかった。
言われたかったし、もっと言うなら、「それは神さまのご加護じゃなくて、あなたの努力で得た力だよ」と認められたかったのだ。


べつに努力じゃなかった

それは私の努力じゃないと気づいたのは、はずかしいことに20歳を超えてからだった。

小学校受験に(面接で苦労しながらも)合格できたのは、両親が公文や面接対策やそもそもの幼稚園選びに結構なお金を出してくれたからなのは間違いない。小6にしては長めの作文が書けたのも、同じく、両親がたくさんの本を好きに買えるお金を出してくれたからだ。

シスターたちは私によく「恵まれている」と言った。そのたびに私は「なんでそんなこと言われなきゃいけないんだよ、私の努力だよ」って思っていたが、そんなものはいまふり返ってみるとほぼ皆無だった。
「神さまのご加護」は「運と親の金のおかげ」をオブラートに包んだ表現だったんだな、と、いまようやくわかる。


東大入学式の上野千鶴子さんの祝辞と、それに対する一部のひとたちの反応を見たとき、最初に思い出したのがそんな自分の記憶だった(東大入れるくらい勉強したひとたちと自分をならべて語って本当にごめんなさい)。
TwitterやFacebookを見ていると、この祝辞を素晴らしいと絶賛しているひとも多い一方で、「どうしてハレの日にこんなことを言われなきゃいけないんだ」「女子学生にむしろ呪いをかけているのでは」という声も少なからずあった。

先に個人的な気持ちを言うと、上野さんの祝辞には素晴らしいと感じる部分が多かった。

各種データのなかで、女子受験生の偏差値は男子受験生より高いと出ているのに、女子のほうが4年制大学に入りにくいという事実がある。東大のなかにはいまでも、他大学の女子学生の参加しか認めないサークルがある。そういった実在する女性差別を次々と並べていく前半部にはあらためて怒りと悔しさを感じたし、

がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。

という言葉には、率直に言ってぼろ泣きしてしまった(さすがに、勉強をがんばったのは受験生本人の努力がとても大きいと思うので、そこは褒めて……とも思ったけど)。

だから、この祝辞を聞いて「なんで入学式で女性差別についての話をされなきゃいけないんだ」とツイートしていた知らない男性には、「こういうタイミングで一度はこういう話をしなきゃ、いままで自分が置かれていた環境が恵まれてるってことに気づけない人もいるんだよ」と思ったし(環境は違ったけど私はそれにずっと気づけなかったから)、「“高学歴女子は敬遠されがち”って呪いをかけてるのでは」と言っていたひとには、「それは呪いじゃなくて実際に存在している性差別で、それを知った上で世界と対峙していこうっていうメッセージじゃないの?」と思った。

この祝辞を聞いて、自分の置かれている環境と、世のなかの女性を取り巻いている環境についてあらためて考えている、とツイートしたり話してくれた人たちが何人もいた。私はそれを希望だと思う。


「傷つくけど仕方ない」を受け入れるひとたち

一方で、冒頭の話にもどる。
夫と、ふたりの男友だちの話をする。


夫の職場に、女性の先輩がいる。彼女は夫より5年ほど社歴が長いけれど、 仕事の上では夫のほうが評価されているという。たしかに、部外者の私が話を聞いても、夫のほうが業績を出している。

正直に言えば、私はそれが「夫が男性だから」なのかわからない。
職場が違うからなんとも言えないけれど、話を聞く限り夫はめちゃくちゃよく働いている。成果物を見ても、これだけ働いていいものを作っているのだから、そりゃ評価されてほしい、と思う。

でも、もしかしたら、女性の先輩は「女性だから」あまり活躍の場を与えられていないのかもしれない。そういう場を私は実際にいくつも見てきたし、そうでない場も見てきたから、なんとも言えない。

その先輩は、夫に「男性だから優遇されている」みたいなことを言うときがあるという。そういうとき、「僕はたしかに優遇されてるのかもしれないから、なにも言えなくなるよ」と夫は言う。
先輩が「男性」を責めるたび、夫はいつも「うっすら傷つくけど、仕方ないのかなって思う」とも言う。


それから、男友だちに、「自分のなかの男性嫌悪がどうしても消せない」と言うひとがふたりいる。
彼らと話すたびに、信じられないくらいやさしいなと思う。彼らは女性差別や女性への痴漢・強姦のニュースが出てくるたびに、正面からそれを読んで、考え、傷ついている。

「『男性という性別にはそれだけで加害者性がある』とどうしても思ってしまう」と彼らは言う。
私はそれを否定したいけれど、自分自身がむかし、それぞれ違った男性から夜道であとをつけられたり、痴漢されたり、車から声をかけられて誘拐されかけたことを思い出して、知らない男性が近づいてくるとそれだけで怖くなってしまうときがあることを考え、迷ってしまう。

もちろん友だちのことは大好きだし、男性のほとんどが痴漢なんかしないってわかってもいるのに。


総合量を減らしたい

大切な人たちに、あるいは、いちいち立ち止まって物事を考えることを選び続けている人たちに、「男であることをやめたい」なんて言ってほしくない。そう言わせる社会ってはずかしいなと思う。

「私たちは『女であることをやめたい』ってずっと思ってきたんだから、男のひとにもそれを担ってもらおうよ」という考え方も、たぶんある。
でも、そんなのしんどすぎない? と思う。大きな荷物を常にどちらかが背負わなきゃいけないルールじゃなくて、できるだけその荷物の総合量を減らしていくのが最終目的なんじゃないのかなと。


まだいろんなことに悩んでいる状態のままでこの文章を書いたのだけど、私は私のなかにたしかにある男性恐怖(嫌悪)を認めて、少しずつ減らしていこうとしている。
これからもし続けるから、読んだほうがいい本とか、考えたほうがいいこととか、あったら教えてください。

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生湯葉 シホ

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コメント1件

なんとなく、考えるキッカケになりそうな気がしてます、ぼく自身…

男性であることが加害者である考え方…あるかもしれません…

それを気にやむ方とそうでない方ともいるのでしょうね…

考えてみたいと思います
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