◇接触と思考流出の恐怖

「#子供の頃の勘違いをあえて言おう」というのが、少し前にTwitterでトレンド入りしていました。ある言葉を違う音で覚えていたとか、実在しないものがあると信じていたとか、そういう感じのエピソードが見受けられるタグ。
それらを眺めていてひとつ、蘇る記憶がありました。

「触れられると思考を読み取られる」という恐怖を感じていた頃の話です。
まだ親と一緒の布団で眠っていた時期ですから、小学校にも上がっていなかったでしょう。
布団の中で、親の寝息と体温を感じながら、ふとその発想に至ってしまった。それからは、触れないように、触れられないように、身を縮こまらせるようになりました。
触れたとして、親の思考がわたしに流れ込んできたことはありません。だからといって、自分の思考も親に流れ込まないとは思えなかった。
それが幼さゆえの勘違いだったと、今になっても笑い話にできずにいる。他人の思考なんて流れてこないよ、という人がいたとして、他の誰かもそうとは限らない。そもそも、客観的に証明する手立てがありません。

だからか、未だに他人に触れられるのが苦手です。どんなに近しい人であってもそれは変わらないし、不意打ちされるとビクついてしまうこともある。それと過敏な時期が重なってしまうともう地獄で、パニックすら起こしかけたことがありました。
どうも小さな頃から抱かれたり、触れられたりするのを嫌う子だったようです。だから思考が流れ込むなんて恐怖を抱いたのか、そんな恐怖ゆえに触れられるのを嫌ったのかは判然としません。聞く限り、嫌がるほうが先だったのかな。

触れるだけで思考が伝わるのであれば、齟齬や誤解も生まれなくて済むのに。そういう考えもあるでしょう。上手く言葉にできなかったり、選んだ言葉が意図せぬ取られ方をしたりした経験は、誰しもあると思います。そんなとき、言葉や仕草に頼らず、思うことを直接伝えられたなら。
でもわたしは、恐怖と取ってしまった。自身の醜い部分が流れ込んでしまうのではないか、押し隠している部分を知られてしまうのではないか、と思うと恐ろしかった。それを幼少期に抱いてしまったのは、つまり「悪い子」だと親に知られたくなかった、ということなのかもしれません。どんなに「いい子」として振舞っていたとしても、自分の本性が流れ込んでしまえば、そうではないことが分かってしまう。それが怖かった。

いまもその恐怖は、完全に消え去っていないのでしょう。常に恐れている。ちっぽけな自分を暴かれること。無価値な自身を、曝け出すこと。
もしかしたら、それゆえに言葉が磨かれてきた面があるのかもしれません。それが言葉選びの美しさや、文章の心地よさといったものに通じているのならば……すこしだけ、救われる気もします。